Javariをはじめて使ってみたら、とんでもない罠にはめられた件

履いていた革靴がだいぶ疲れてきたので、何度でも返品OKという、Amazonの靴&かばん販売サイトJavariをはじめて使ってみた。

上は10万円を越えるものから、1万円を切るものまで品揃えが意外と豊富だ。ほとんどの靴に色違いもある。
ただ、サイズがないものは結構あった。

デザインは確認できてもやはり革の質感とかは手に取らないと分からないよなぁ、と思いつつ、まぁ嫌だったら返品すればいいかと思うと気が楽になる。
やはりこの「返品OK」はでかい。というか、そうでなきゃネットで靴など買えないか。

サイト上には「あと○時間以内にご注文いただければ、明日のお届け」という文字。
別に急いでいたわけではないけど、本当に急を要するときは便利なのかもしれない。
明日どうしても靴(orかばん)が必要!という状況はあまり思い浮かばないけども…

とりあえずめぼしいものを見つけて注文。当たり前だけど、本当に次の日すぐ着いた。

デザインはまぁ思ったとおり。手触りや質感なんかも、値段の割にはいいかな。
試し履きもして(この時、ちゃんと両方履かなかったのが敗因…)サイズもOK。

ここまで、総じて高評価。次も使ってみてもいいかな、と思っていた。

そしていよいよ初日。靴をおろすというのは、いつでも嬉しいものだ。

し、しかし、ここで予想もしないトラップが待ち構えていようとは!

「さぁ、この時何があったでしょう?」とクイズにしても、絶対に誰も当てられないだろう、という自信がある。

答えは何と「片方の靴紐だけ異様に長い!!」

ヒィー! なんじゃこりゃーー

しかも、ちょっとどころじゃない。すげーーー長い。
きちんと縛っても、歩いていたら確実に踏んづけるだろうな、というくらい。

なんなんだよ、この地味すぎる嫌がらせわぁぁぁ!

まぁこれで返品も面倒なので、靴紐買いましたよ。。
他の人でもこんなことあるのかな。。 まぁ相当レアケースだろうな。

次も使うかどうかは悩み中…

凡人と天才は生まれながらに違うのか 神からの贈り物 – gifted child –

早期教育について調べている際、「Gifted Child」という言葉を知った。
「Gifted and Talented」という言葉もあり、前者は主に学力、後者は芸術的な才能を指すようだ。
※現地で見たり経験したわけではなく、あくまでネット上の情報を見たうえでのエントリです。

日本語にすると「英才教育」となってしまうが、「gifted」という言葉が示すように、日本でよく見る「幼児期に施す早期教育」とは考え方が根本的に異なる。

それは「天才は、そもそも生まれながらに違う」というものだ。

こう聞くと「身もフタもないなぁ」と思ってしまうが、それも「人間観」や「平等」という“超根本的な価値観”が、日本と欧米でまるで正反対だからである。

○「人」という存在の根源

    日本:親がいて、その親がいて自分がいる。先祖代々培われた伝統が大事。
    欧米:すべての人は、神によって作られたオリジナル。

○才能について

    日本:誰でも、努力さえすればどんなものにでもなれるし、どんな夢も叶う。
    欧米:誰もが同じ能力を持っているわけはない。成長・発達のスピードもそれぞれ違う。

○機会平等について

    日本:誰にでも等しく、同じチャンスを与えることこそ「平等」である。
    欧米:それぞれの個性を認め、それにあったチャンスを与えることこそ「平等」である。

どちらも一理あるような…
ただ、欧米の人は日本の価値観に納得しなそうだな… という気はする。

確かに日本では特に「遅れている」子どもにスポットが当てられる傾向がある。
落第は恥であり、跳び箱が飛べない子どもは延々と残される。

それは、評価制度が画一的だからだろう。日本では、

    ・計算が速い
    ・運動がうまい

という「絶対的な指標」が存在し、それに対してどれだけの能力があるかで、その人の優秀さが判定される。

しかし逆に「進んでいる子どもが遅れている子どもにあわさせられる」ことにはほとんど触れられない。好きで、それを追究したくて、更にどんどん先に進めるかもしれないのに、ある時点でストップをかけられる。
欧米では、それこそが「進んでいる子どもに対する機会損失である」と考えるようだ。

‘gifted’の判定はIQテストが中心だったが、今はそれだけでは不足があるということで、色々と試行錯誤の途中らしい。
認められた子は特別クラスに割り当てられ、その才能を存分に開花させるためのカリキュラムが用意されているとのことだ。

‘gifted’の子どもには、

    ・のみこみが速い
    ・何でも自分でやろうとする(内向的である)
    ・興味がある分野に対しては、並外れた集中力を示す


という特徴があるそうだ。
ここで、「もしかして、自分は’gifted’だったのでは!」と思ったのは私だけではないはず。

個人的には、キレイゴトは抜きにしてやはり人類は一部の頭脳にその他大勢が恩恵を受ける、という構図は否定できないと思う。
どんな人でも、努力さえすればレオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタインになれるとはとても思えない。

しかし、もし日本でこれをやったらどうなるか。

周囲の「あの子だけ特別扱い」というねたみは消えないだろうし、giftedがその他の子に仲間はずれにされる、なんて光景も容易に目に浮かぶ。
現に、やはり欧米でも「こういった選抜クラスのような教育法は、おちこぼれた子たちの学習意欲をそぐだけだ」と反論する人もいるという。

それに日本人は「年齢」を重要視するので「飛び級」も中々なじみそうにない。
優れている年下が「優秀だ」と言われるのではなく、「生意気だ」と言われてしまうのが日本だ。

gifted教育のよしあしは別にして、文化が根本的に違う以上、根付かせるのは正直難しいだろう。
アメリカでも本格的に始まったのが1993年頃からだというから、実際の効果を検証するサンプルが少ない。おそらく、何らかの弊害もあるに違いない。

しかしそれでいいのか?という疑念も残る。

欧米の実例を参考にしてから…
でもそんなこと言っているうちに、世界から取り残されてしまうかも…

うーん。。 難しいなぁ…

[映画]『ミスト』 フランク・ダラボン監督

評点:10点(100点満点中)

DVDで観たものを「映画評」としていいものかどうか、しかも少し前の作品なのでこれまた微妙なのだが、せっかく観たのでレビューを書こうと思う。

しかし、レビュー第一回目がこの作品になってしまったのは非常に残念だ。
はっきり言って、観る価値はない。

あらすじは、ある片田舎に突然原因不明の「霧(ミスト)」が発生。
そしてその霧の中には何やら得体の知れない凶暴な生物がいることが分かり、たまたまスーパーに居合わせた住民はパニックに陥る、というもの。

劇中、ほとんどがスーパーマーケットの中で展開するにも関わらず、グイグイと引き込まれる。このあたりは同じくキング原作の『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』などを手がけてきたフランク・ダラボン監督の手腕だ。メジャー映画の作り方を本当に良く知っているなぁと感心する。

そして、恐怖におびえる群集心理も非常によく描かれている。
当初は居合わせたみんなで協力し合うものの、あまりの恐怖に、皆が一人の狂信的な女性に煽動されていく姿は、やや大げさではあるが(こんな状況になったらこうなっちゃうかもな…)とも思わされた。

もしこの映画が群集心理を描きたかったのなら、現実にはありえないあんな昆虫みたいな生物ではなく、もっとリアルなものの方がよかったのではないか、という違和感は覚えたが、それでもかなり引き込まれて観続けた。

この映画のコピーは「映画史上かつてない、震撼のラスト15分」だそうだが、そりゃそうだ。
こんなひどいラストシーンは観たことがない。

物語というのは、主人公の気持ちがすべて観客に開示されていないといけないと思う。サスペンスで、最後の最後に犯人は実は主人公でした、と言われたらどうしようもない。主人公は観客にウソをついてはいけないと思うのだ。

逆に、最後に死んだ人がすべて生き返りました、という話でもそれが許されるのなら全然OKだし、とにかく、作品中に「絶対犯してはならない価値観」がひとつなくては、物語の軸がぶれぶれになる。

一箇所、そのラストシーンにつながる伏線があるのだが、だからといって「なるほどね」とは思わない。思うわけがない。

スティーブン・キング原作と言えば、世紀の「駄ラストシーン」の『It』(正確にはTVドラマ)という作品があるが、これを観た後ではまだ『It』の方がましだと思える。

双方に共通しているのは、ラストシーンまでは非常に面白いのだ。息をもつかせぬ展開で観客を引っ張り続け、手に汗握って画面から目が離せない。

しかし、最後の最後でドッチラケなのだ。
何なんだと。今までの2時間(『It』は4時間くらいある)を返せと。

『It』の方は単純にくだらないラストだったのだが、こちらの方は基本のセオリーを無視したという意味でもっと罪が重いと思う。
アメリカという国で、このようなラストを選んだチャレンジ精神は認めなくもないが、本国での興行がまったく不振だったというのも分かる。

感情的な面だけではなく、技術的な面でも私はこの映画を肯定できない。

点数の10点は、マーシャ・ゲイ・ハーデンの助演がすばらしかったのと、子役の演技のみ。

[読書]植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」 戸井十月

稀代の大スター、植木等。
その晩年、一年間にわたって行われたインタビューを元にしたというこの作品は、非常に読み応えのある「面白い」ものだった。

若い人の中には、名前を知っているという程度の認識の方もいるかもしれない。
しかし氏は、直接的にかかわったザ・ドリフターズなどのみならず、桑田佳祐、ビートたけし、タモリ、所ジョージ、関根勤など彼の姿をみて育った多くの人の憧れの存在であった。

本書は、まず彼に多大なる影響を与えた父の話から始まる。

この父というのが、キリスト教の洗礼を受けながら寺の坊主になり、戦時中に戦争に反対して牢獄に3年入れられたという、まぁ何というかとてつもない人だ。
当時、戦争に反対すれば「国賊」として罵られ、植木自身もそれが原因でさまざまないじめに遭ってきたという。とても常人ではできなかったはずだ。

その時点ですごいと思うのだが、それでいて、家に愛人を上がりこませている間、妻を押入れの中に押し込めておくというのだから、破天荒という言葉では言い尽くせない。

しかし植木は、そうして時に母に手をあげる父を好きになれなかったという。
植木の誰に対しても真摯で生真面目な性格は、それでも「お父さんは偉大な人なのよ」といって憚らなかったやさしい母親に似たのかもしれない。
また、植木が東京の寺に奉公に出されたときのエピソードは、何とも切ない。

やがて、ビジネスパートナーであり、のちに生涯の盟友となるハナ肇や谷啓と出会う。
この辺りの描写はかなり細かく、ファンの方であれば非常に興味深いと思うのだが、驚くのは彼らの若さだ。

植木等19歳、ハナ肇16歳で出会い、さまざまなバンド活動を通じてお互いの実力を高めていく。
「クレイジー・キャッツ」はジャズバンドとしても超一流であることは有名だが、谷啓にいたっては18歳で日本を代表するようなトロンボーン奏者だったというし、才能あふれた人たちの「早熟さ」を痛感した。

徐々にスターダムを駆け上がっていく植木とクレイジー・キャッツだが、それを決定づけたのが、作品名ともなっている「わかっちゃいるけど、やめられない」に代表される「無責任男」時代だ。
それに至る「天才」青島幸男や、すぎやまこういちの話も興味深い。

彼はこれによって人気の頂点を極め、おそらく当時日本一のトップエンターテイナーとなった。

しかし、自身はその「無責任男」に生涯苦悩していたという。本人は酒も飲まない、まじめを絵に描いたような人間だったからだ。
これは今となっては皆の知るところとなったが、当時は「植木等は本当に無責任な男」だと誰もが思っていたのだ。

TV、歌手、映画、舞台とあらゆる仕事をこなす植木。特に映画撮影での古澤憲吾とのエピソードは大変面白い。
例えば、ヘリコプターに繋がれた縄橋子につかまって撮影していたら、本当にそのまま離陸してしまったというのだからめちゃくちゃだ。

植木とクレイジー・キャッツは、TVの創成期を支えたスターだ。
だからこそ晩年、植木は近頃のTV番組の低俗さに不満を呈していたという。彼らは1時間の番組を作るために何日も稽古をしたというのだから、それもうなずける。

適当にカメラを回して、適当なリアクションを面白おかしがる今の風潮は、彼らのようにエンターテイメントを作りこんできた身としては、複雑な気分だったのだろう。

全編を通じて、著者の植木等に対する「愛」があふれているのだが、特によかったと思うのは、植木自身のインタビューをおそらくほとんど編集することなく掲載しているところ。
独特のその言い回しは、何とも粋なものが多いのだ。本人が笑みをたたえながらしゃべっている姿が本当に目に浮かぶ。

そして、同じ時代を生きてきた著名人の名前も数多く登場する。
渥美清、加山雄三、ザ・ピーナッツなど。特に、あの世界の黒澤明を一喝し「小さい男だと思った」というエピソードはとても痛快だ。

数々のエピソードにぐいぐい引き込まれるのだが、個人的に何よりもうらやましいと思ったのは、若いころから70、80の晩年に至るまで同じ道を歩み続け、正に「死ぬまで親友」と呼べる人たちがいたことだ。
もちろん、多くの人は「友」と呼べる人がいるだろうが、こうして「同じ道」を志してそれを全うするというのは非常に稀有ではないだろうか。

真のエンターテイナーとは何か。
それを少しでも垣間見ることができる今作は、ファンならずとも、一人の男の愚直でかっこいい生き方を学べるよい作品だと思う。

唯一残念なのは、周りの多くの人は植木を慕って悩みを相談してきたということだが、彼自身が悩んできたこと、思慮深い彼はおそらく人生のさまざまな場面で深く思い煩ったはずなのだが、そこまで掘り下げられていない点だ。

ただ、泣き言は決して言わず、谷啓をはじめメンバーにすら愚痴をこぼさなかったということだから、彼の本当の心のうちは結局誰も知ることがなかったのかもしれない。
そういった姿がまた、しびれるほどかっこいいと感じる。