[ゲーム]Wii「428」に、次世代映像コンテンツの片鱗をみた

以前ゲーム会社でMMORPGを開発していたことがあるのだが、ビデオゲーム自体もう何年もやっていない。
それだけの時間と興味が(元々強かったわけではないけど)なくなってしまったからで、多分これから先も滅多なことではやらないと思う。

しかしこの「428 ~封鎖された渋谷で~
」は別だ。あの名作「街 ~運命の交差点~」の(正統なものではないにしろ)続編とも言えるサウンドノベルなのだから。

発売からもう4ヶ月近く経っているのだが、この間ようやく時間をとってプレイできたのでその感想をここに記したい。

「街」とその伝説をご存じない方は、是非Wikipediaあたりで確認していただきたい。

このゲームのジャンルである「サウンドノベル」とは、物語形式のゲームを小説のように読み進めていき、時折現れる選択肢に正しいものを選ぶことで先に進むというもの。

そして「街」および「428」が他のサウンドノベルと大きく異なるのは、主人公が複数いる点だ。ザッピングというシステムを使い、次々に主人公を切り替えていく。
昔、TBSとフジテレビが深夜にこの手法を取り入れたドラマ(同じ話が同時進行で流れていて、主人公が異なる。観ている側はチャンネルを「ザッピング」しながら楽しむ)を放送したのだが、一度きりで終わってしまった。個人的にはすごく面白かったのだけれど。

ある主人公の選択が他の主人公の物語を停止させる。例えば、何気なくドアの鍵を閉めれば誰かが閉じ込められてしまう、といった具合に。
通常の映画であれば、一筋の決まったシナリオを追っていくだけだが、ここではそれぞれの物語を観ている(プレイしている)側が自由に選択し、進めることができる。間違えたらまたやり直すことになるのだが、逆に、間違えなければ見られない話もある。

無関係に見える数名が、何気ない選択によってお互いに強く影響しあって日常を暮らしている。このゲームをプレイしていると、日常というのもそんなことの繰り返しなのではないかと実感できる。

私は映像制作の仕事をしていたこともあったのだけれど(色々やってるな… 悪い意味で)、原作を手がけた長坂秀佳氏がその時感じていたのと同じように、従来の映画やドラマ、それに小説ではできなかった、ゲームを加えたからこそ可能になった新しい映像コンテンツの登場を見た覚えがした。それほど「街」には感動したのだ。

そして、今回の「428」。個人的には、「街」を越えることはないだろうと思っていた。
続編が初代を越えることの難しさ、しかも比較対象があの名作であるのだから尚更だ。

しかし、本当に期待以上だった。「超えた」とは言わないものの、少なくとも「並んだ」と言っていいと思う。以下は「街」との差異を元に記載したい。

前作が無関係の8名が主人公だったのに対し、今回はひとつの大きな事件を軸として、それに関係の深いメンバーで繰り広げられる。その点は非常に大きな違いだ。
それと関連し、コメディとシリアスに明確に分かれていたシナリオが、全体的にシリアス一本に統一されている。

ゲーム中では、すべての主人公の物語を1時間進ませなければ、次の時間には進めない。これは一日単位だった前作と同じだ。
あえてこのようにすることで、次の展開を期待せずにはいられない。「次を、次を」と時間を忘れてどんどん引き込まれてしまう。

登場人物の多彩さも魅力だ。そしてこの点では「428」は「街」にかなわなかったかもしれない。
目に見えない少女、東大を首席で卒業しているのに定職に就かず警官のコスプレでパトロールをする渋谷で生まれ育った東北訛りの男、街のあらゆることを番組のネタにしようとするTVプロデューサー… あげればきりがないほど、「街」には本当にいい意味でくだらないキャラクターがたくさんいた。

しかし、クライマックスに近づくにつれての物語の盛り上がり方、早く結末が知りたいような、しかしこの世界が終わってしまうのはとてつもなく寂しいような、そんな感覚は「428」が上だった。
複数の主人公たちを操り、だからこそ見えてくるほかの主人公たちの心情や行動を理解し、魅力的な世界観にグイグイと引き込まれていく。

私は最終的には攻略Wikiまで見て、すべての物語をコンプリートしてしまった(それにしても、アニメーション版の作者の独りよがり以外の何者でもない文章は、本当に読み進めるのが辛かった… 途中からは完全に読み飛ばした)。

これが文字ではなく動画で再生されるようになれば、本当に映画とゲームが融合する日が来るのかもしれない。
今度こそ、次世代の映像コンテンツが生まれてくるのかもしれない。

10年前に「街」をプレイしたときに思ったのと同じ感情を、あの頃よりグラフィックや構図など、見た目のクオリティの面が格段に上がった「428」をプレイして感じた。

・Wiiを持っている
・アクションゲームは苦手。頭を使うゲームが好き
・小説を読むのが好き
・登場人物の役者さんの誰かのファン

という方は、是非プレイしてみていただきたい。
遅くとも30時間程度で終了でき、濃密な、絶対に後悔しない時間を過ごせると思う。

[映画]『ツォツィ』 ギャヴィン・フッド監督

評点:55点(100点満点中)

アカデミーつながりでもうひとつ。2005年の外国映画賞を受賞した作品。
それにしても、観る作品が微妙に今更感漂うが、気にしない気にしない。

舞台はアフリカ。
豪邸に住む富裕層と、吹きざらしの土管しか住むところがない子供たち。今アフリカが置かれている貧富の格差を、否応なしに見せつけられる作品だ。

主人公は、そんな貧しい環境で育った少年。若くして強盗や殺人を平気な顔でこなす、まるで感情というものが存在しないかのような彼は、ある日盗んだ車から生後間もない赤ちゃんを発見する。
すぐに返すこともできたはずの彼だったが、そうしない。赤ん坊という絶対的に無力な存在を前に、自分が体験できなかった親からの愛情を逆の立場になって追体験するかのように、また、自分は誰かの役に立っている、生きていて構わないんだと再認識するかのように、彼は赤ん坊と接する。

幼くして拳銃を操り、人から奪い、殺すことでしか生きられなかった少年。
この映画は、責めるべきはそんな少年ではなく社会であるという明確なメッセージが見て取れる。

この絶望的な状況が現在のアフリカで繰り返されているのだとしたら、相変わらず無力な自分を呪うことしかできなくなる。何とか好転してほしいとは思う、しかし自分から出かけて行って何かを変えようとするまでの行動力や勇気はない。
「この状況を見て、お前には何ができるんだ?」と、監督は観ているものに問題を叩きつけているのかもしれない。

しかし少し不満だったのは、少年の心が移り変わっていくところの描写が足りなかったこと。
彼は作品中で確実に成長し変化しているのだが、その心境の描写が物足りなく感じた。

85分という短い時間に編集したのは勇敢だったと言えるけれど、個人的にはもう少し観たかったな、というところ。

[映画]『ノー・カントリー』 ジョエル・コーエン イーサン・コーエン監督

評点:65点(100点満点中)

2007年度のアカデミー作品賞受賞作。

劇中、音楽も流れない、笑顔も見られない、とにかく陰鬱な雰囲気漂うものだった。決して嫌いじゃないが。
あらすじは、麻薬の取引がらみのマフィアの大金を、たまたま通りかかった男が横取りしてしまい、それを追いかける冷徹無比な殺し屋から逃げ続ける、というもの。

この手のストーリーであれば、この男がなぜ大金を奪わなければいけなかったのか、などが裏付けされそうなものだ。たとえば、病気の子供がいるとか。
しかし、この作品ではその点が一切描写されない。ただ単に、大金が欲しくてマフィアの金を奪った田舎のカウボーイとそれを追う殺し屋、という構図なのだ。

正直言って、それが中盤の退屈さを生んでしまった。
確かに、緊迫感は十分。しかし、何の意味もなく、ただ逃げ惑う男とそれを追う男の対決を見ているだけというのは結構つらい。
終盤の展開も、見方によっては非常にあっけない。「今までの何だったの?」というくらいだ。

ただ、観終わってからの余韻度合いは半端じゃない。
大抵の映画は、観終わって数日もすればまぁ忘れてしまう。「面白かったな」という程度の感覚しか残らないものだ。

しかし、この『ノーカントリー』は非常にあとを引いた。『マルホランド・ドライブ』と後味の種類は違うものの、同じ程度の後味の粘り方だ。

おそらくこの作品は、Eaglesの「Hotel California」の歌詞のように、「アメリカで生まれ育つ」というバックボーンがあれば、よりリアルさを伴ってくるのだろう。
残念ながら私はそうではないので、この映画の真の面白さや意味を理解できていないのだと思う。しかしそれでも、アメリカ人やアメリカ社会が抱えている闇の部分は感じることができた。

アカデミーはアメリカ映画の祭典であるが、事実上世界最高の映画賞である。それゆえ、特に近年ではどこの国のどんな文化の人が観ても面白いものが優遇されてきたように思う。
その潮流の中、このような映画が作品賞をとったことは非常に意義があったのではないかと思われる。

民族問題に接する際、自分が考えること

昨日のエントリに多くのコメントをいただき、その多くが大変有用なものだったので、コメントへの返信ではなく再度エントリにしてその代替とさせていただきます。

皆さん、多くのご意見をいただきありがとうございました。
色々な立場の方から多面的なご意見をいただき、自分ひとりでは持ちきれない物の見方を学べました。ありがとうございます。

私が前エントリで主題としたかったのは、どんなに相手に罵倒されたとしても、それにいつも罵倒で返していたら結局自分も同じレベルということになるし、いつまでたっても終わらないのでは、ということでした。
例えば相手が何か自分たちにとって不利益なことを発言や行為をしたとして「○○はバカだから」となると、向こうも負けじと「何だこの野郎」となるともう何か意味がないんじゃないかなと。

と言いつつmocchiさんがおっしゃるように、私自身が他者を非難するような論調で書いており、それは本当に周りが見えていないというか、大変反省しております。

韓国や中国の、マスコミ以外の一般の人でも「反日」が多いというのは間違いないですが、例えばその原因が学校教育で「反日」を叩き込んでることだったり、扇動的なマスコミだったとしたら、やはりそんな「日本の情報を故意に歪曲した」教育なり報道を施している側に問題があるはずで、(大げさに言えば)戦時中の日本で「天皇バンザイ」と教えられてきた人たちを責められないのと同じように、その教育する側なり、報道する側に問題を見つけるべきかな、と思います。
日本が中国に対して多額のODA援助しているのを、中国の一般人がほとんど知らないっていうのも、政府が意図的に教えないからですよね。

もし自分が正しいのに向こうが矢のように罵倒してくるのなら、じゃあ何なんだ、何が原因でこんなこと言われなきゃならないんだ、と考えたり相手に伝える方が結果的にお互いにとって良いんじゃないかと思うんですよね。

それに、rennon_09さんがご指摘くださったように、そこには政治勢力が大きく絡んで、自分たちの利益のために大衆を少なからず扇動している部分があるはずなんで、そこにまんまと乗せられるのもかっこ悪いかなと。

その上で「××人はこれだから…」とか「民族問題は根が深くて解決しないよね」で終わってしまうのは、思考の停止かなと思うんですよね。

暴力団に朝鮮系が多いことも、パチンコ屋が利得をむさぼっていることも、私もものすごく嫌だけれど、「これだから朝鮮系は嫌いだ。日本から出て行け!」と言っても出て行かないし、じゃあ何でそうなってしまったのか、今が嫌ならどうすればいいのか、まだ私には解が見つからないけど、それを考えて行動していくことしか解決にならないんじゃないのかな、と思っています。それが「パチンコには絶対行かない」とかそういうことだったとしても。

日韓や日中、それに世界中には数え切れないほどの民族紛争があって、それがすべて解決するものでもないとは思います。何百年、何千年とできなかったわけですし。根本的に、絶対に合わない人って(結構たくさん)いますからね。
個人的な意見ですが、やはりどうしても価値観が異なって付き合えない人というのはいると思います。例えが極端ですが、訳の分からない猟奇的殺人を犯すような人と普通に仲良くはなれないでしょう。しかしひとつの国なり民族を括って「全部そういう人間だ」ってことはないと思うんですよね。
そういう人が憎しみをもってぶつかってきたら、マザーテレサのように全部包み込むのはそりゃ無理だけど、とりあえずスルーするとか。

ネットでいろんなことが便利になって、それを人を罵倒したり憎しみを増幅させるために使うっていうのも寂しいんじゃないかと。

それと、ここからは個人的な願望ですが、お互いを「個人」として理解するには、インターネットというのはとても有用だし、国籍とか関係なくこれだけ簡単に話ができるようになったのだから、もしかしたら、少しずつでも前に進めるのかもしれないという希望は持ちたいですね。

結局言ってることは「憎しみは負の連鎖にしかならない」っていう、ただの理想論なんですが。

皆さんのご意見は非常に参考になりました。最後にもう一度御礼を申し上げます。

WBC 韓国人を非難し、自己を正当化するのはそろそろやめるべき

まさかの三日連続WBCネタ。

日本全国を感動と興奮に包んだWBC。
今日街を歩いていると、本当にそこいら中に余韻が残っているような気がするから不思議だ。
みんな何だか嬉しそうに見える。

しかし、ネットの世界に入ると途端にこの清々しい余韻が壊れる。

【WBC】「“ダーティーサムライ”」と韓国紙 「イチローは高慢」
痛いニュース(ノ∀`):【WBC】韓国「日本は運がいいだけ。たった4ヵ国に勝っただけで世界一」

これに対するネット民の反応は相変わらずだ。
「さすが韓国w 民度が低いwww」
「負け犬の遠吠えウザイ」
「自分たちのことを棚に上げて、他人だけ批判かよ」

そう声高に叫ぶ人は、これが韓国の一部のマスコミの論調だとは考えず、本当に韓国国民、および朝鮮系の人々の総意だと思っているのだろうか。もしそうだとしたら、本当に心配になる。

自国のマスコミに対しては「マスゴミ」などと称してその真偽を疑うのに、何故他国のマスコミの言うことはすべて鵜呑みにするのだろうか。刺激的なタイトルと内容で部数やアクセスを稼ごうとするのは、万国共通だとすぐ気づきそうなものなのに。

知り合いの韓国人とWBCの話をしたが、誰一人言い訳などしない。悔しがってはいるものの、日本を称え、おめでとうと素直に賞賛する。確かに、そもそも日本の文化に憧れて来日している人たちだからかもしれないが。

しかしもし日本が負けて、日本のマスコミが「しかし、トーナメントに問題があったのは事実」などと書いた場合、ネット民たちは「恥ずかしいから負け惜しみすんな!」と激烈に非難するだろうか。「まぁそうかもね」くらいに流すんじゃないだろうか。

韓国でも同じなのではないか。少なくとも、そんな疑問を持つことすらないのだろうか。

はっきり言って、彼らは「また言い訳してるよ」と言いたいがために、否定的な報道をする韓国メディアのソースを必死でかき集め、「出たwww これだから韓国はwww」と、はじめる。
これは心理的には、他人を卑下することで優越感を得、自己を肯定する行為だ。

勝ったのは日本選手であって(確かに応援はしていただろうが)自分たちではないにも関わらず、まるで自分たちの方が韓国の人々よりも人間的に優れているかのように錯覚し、自己を正当化しようとするのだ。
いわば、WBCでの勝利はひとつの口実に過ぎず、自分たちより劣った人間を探すことで安心しようする自己防衛に過ぎない。
付け加えれば、それは自己に自信のない人間が陥りやすい。

しかしそれは、野球という決まったルール上で白黒つけ、あれだけかっこよかった日本・韓国の両選手と比べて何とちっぽけだろうか。

そもそも、韓国の人が日本を蔑むような発言をしたとして、それに対し「これだから韓国人は」と人種を一括りにして返せば、良識ある韓国人から「また日本人は…」と思われるだろう。それは無限ループだろうと。
日本を悪く言う一部の韓国人を否定するのならば、「すべての日本人が韓国人を悪く言う」と勘違いしている人たちへの責任を取って欲しいものだ。

ある一定数以上の大勢の韓国人に、その総意の元に直接被害を被った経験がある人が言うのなら分かる。
しかし、そんな人が一体どのくらいいるだろう。

そして、この傾向はネット住民に特に強い。
街中のマクドナルドで「WBCすごかったねぇー」と話す人はいても、「韓国また言い訳してるよww」と罵っている人は見かけない。

ネット民は「情報強者」であることを自認するあまりに、対象の欠点や自分たちに有利な情報で理論武装し、優位に立とうとする傾向がある。
それ自体は悪いことではないが、今自分が行っている行為が恥ずべきことではないかどうか、たまには自問自答すべきだ。
確かに言論の自由はあるけど、あまりに品性のないことを繰り返していると、それこそ日本人の民度を疑われてしまう。

まぁこれは、日本と韓国(朝鮮)という、根がとてつもなく深い問題が関係しているで難しいのだけど。