[映画]フィクサー トニー・ギルロイ監督

評点:35点(100点満点中)

ジョージ・クルーニー演じる主人公は、世界をまたにかける巨大弁護士事務所の「フィクサー(もみ消し屋)」。クライアントの指示とあれば、交通事故でさえもみ消す。

そんな折、巨額の賠償金がかかった案件を担当していた、彼の親友でもある有能な弁護士が突如、原告側の味方につこうとする。
それは、彼が被告側の大企業に非があることが分かってしまったからだった。

しかし、クライアントは大企業。主人公はそんな親友を止めようと動き出すが…

陰影をうまく活用し、重厚感漂う作品。早口でまくし立てるしゃべり方など、ジョージ・クルーニーは敏腕弁護士をうまく演じていた。

しかし、残念ながら作品としては薄っぺらい。主人公の個性(ギャンブル好きなところもまったくの無意味)、登場人物の動機、ストーリー展開…
井筒監督が映画の批評をしていたTV番組で「これなら日本の2時間ドラマの方が面白い」とよく言っていたが、正にそんな感じ。画のカット割りも単調で動きがなく、テンポも良いとはいえなかった。シナリオ、監督、編集さえ違っていれば(ほとんどか…)かなり違った作品になっていたことだろう。

役者の芝居が良かっただけに残念。

[映画]いのちの食べかた ニコラウス・ゲイハルター監督

評点:63点(100点満点中)

食の現場とそこで働く人々を淡々と映し出した、ドキュメンタリー映画。台詞は一切なし。

野菜や果物を摘み取る姿はもちろん、豚や牛を屠殺していく様もはっきりと撮影されている。
死の恐怖におびえて暴れる牛。しかしオートメーションの巨大な機械に乗せられ、流れ作業の中、空気銃で頭を打ち抜かれ一瞬で屠殺される。体は半分に裂かれ、内臓を丁寧に取り出されて次第に我々が見慣れている肉製品の形になっていく。
非常に淡々と作業をこなす人たちの姿が、その様子をより際立たせていた。

ややもすると目を背けたくなるような描写だが、画面は落ち着いていて、美しくすらもある。おそらくいくつかの撮影技術を多用しているのだろう。そのあたりは監督や編集の手腕だと思う。

食肉の加工や、食物の生産現場に直接居合わせない私を含めた多くの人々は、スーパーでパックに入った肉片しか見ることがない。テレビでは、油の滴る高級な肉を映し出しては「おいしそう~」とタレントたちが笑っている。

それはそれでいいと思う。しかし、我々が食べているのは紛れもなく牛や豚という動物だ。それは、紛れもない命の塊だ。確かに、我々に命を与えるために生まれてきた命ではあるけれど。

そこには、毎日動物の血にまみれながら働く人々がいる。そして、いつか我々の命をつなぐために今生きている命がある。ついぞ忘れがちで、あえて目を背けようとしている真実を、改めてみてみようという勇気がある方は、ぜひご覧になることをオススメする。

月並みだが、これを観た後では肉の一枚も無駄にしてはいけないのだと、改めて認識できる。子どもに見せるべき映画だと思う。

[読書]子どもの貧困 阿部彩

サブタイトルともなっている「日本の不公平を考える」というのが、著者が主張したかったすべてを物語っている。

親もなくスラム街で暮らすアフリカの子どもたち、富める人々を横目に道をひとつ隔てた裏路地で悪臭にまみれて暮らす中国の貧困層、ストリートチルドレン問題を抱えるアジアの諸国。

それら途上国に比べ、日本の子どもは恵まれているとされてきた。日本は豊かで、生きていくための最低限の権利が保障されていると認識されている。

しかし、そうではなかった。本書を読むと、日本の「貧困層」と言われる人々がどのような生活を強いられているのかが、克明に伝わってくる。

膨大なデータを元に、日本の貧困が看過ならざる状態にまで陥っていることを指摘する著者。特に、母子家庭のそれは本当に深刻だ。貧しいために働きに出る母親、必然的に取り残される子どもたち。
多くの母親がオーバーワークに耐え切れず体調を崩し、さらに貧しくなっていく。日本では「女性の社会進出」という御旗の元、とにかく「働くこと」が奨励される。しかし著者に言わせれば、それは「働くことを強いている」ことにもなっているという。貧しければとにかく働け、その場は作ってやるから、と。

生活保護に関しても、マスコミに登場するのは主に不正に受給している人ばかり。しかし実際は、受ける資格があるのに受けられない人たちばかりだ。何度申請しても、何かしら難癖をつけられて断られる。弱い立場の人々は、もう追い込まれるしかない社会が、そこには広がっていた。

そこには、貧しくても強く生きることこそ美徳、という日本人ならではの「清貧」の精神があると指摘する。貧しくても、がんばって勉強をして偉くなることこそ尊い。人々はそのような美談を好む。
しかしそれは、本当に一部に過ぎない。ほとんどの子どもたちは、貧しさに学習意欲をそぎとられ、夢を見つけることもできず、幸福も感じられず、また同じような子どもたちを生み出すことにもつながる。国は「機会の平等」を掲げているというが、こういった子どもたちにはその機会すら与えられていないと著者は嘆く。

何ということだろうか。子どもが、貧しさのあまりすべてを諦めるしかない社会とは。

現状を嘆くばかりではない。著者はきちんと代替案も示している。
そのひとつが、従来家庭単位で考えられていた救済を、子ども単位で行うべきというものだ。両親にいくら資産があるのか、働こうと思えば働けるのかどうか、親戚にお金を借りられるのではないか。そのような「大人の事情」は子どもには関係ない。今その子どもが置かれている状況がすべてであり、それが保護に値するものだと判断されれば救済を行う、というものだ。

このような問題は社会の縮図であり、解決するのは非常に難しい複雑さがあるだろう。そして、著者が提示するような案で本当に何とかなるのかどうかも分からない。
しかしこの状態が本当なら、絶対にどうにかしなくてはならない。このまま社会の暗部に目を瞑ったまま暮らしていくのは忍びない。

著者の阿部彩氏は、MITを卒業し国際連合でも働いた経験があるそうだ。
家庭も子どもも持ち、非の打ち所のない「超エリート」の彼女が、母子家庭を初めとした日本の貧困を声高に意見することに、非常に意味があったのではないかと思う。

基本的にデータの羅列で構成されているため、読みにくいこともあるかもしれないが、この現実は日本国民であれば誰でも知っておく必要があると思う。

日本人は間違いを恐れる

先日知人と、日本とアメリカのブログ文化の違いについて話していた。
確かに、「Blog」というものに対して両国の間には明確な差がある。

例えば、

    アメリカ:実名、事件や政治に対しての意見を書く
    日本:  匿名、日々の出来事など(日記)を書く

それ以外にも、日本で盛んな芸能人のブログなどはアメリカではまず見られない。そのような違いは、果たしてどこから生まれたのだろうか。

アメリカで生まれた「Blog」だが、今や世界中のブログの4割が日本語で書かれているという。Webサイト全体の英語の割合が6割といわれているのだから、日本人が「ブログ」を非常に好んでいることが分かる。

なぜそこまで日本で流行ったのか。まず初めに浮かぶのは、やはり匿名で気軽に書けるということがあるだろうか。
日本人は、身分を明かして自分の立場を明白にすることをあまり好まない。それは、社会の中で生きていくためにはなるべく軋轢を生みたくない、生むべきではないという暗黙のルールが存在するからだろう。

匿名であれば多少無責任なことも許されるし、社会的な信用度が上がりも下がりもしない。

しかしその割に、社会性のあるブログは少ない気がする。
政治や経済を主題に体制を批評したりするのではなく、今日のお昼に何を食べたか、というような内容が好まれる。

それはなぜだろう。
日本人の政治や社会への関心が薄いからだろうか。それも多少はあるかもしれないが、しかし決定的だとは思えない。
社会情勢が不安定になればなるほど、大衆の政治への関心は高まると思う。日本は、なんだかんだいって社会的に安定しているのだろう。本当にやばいことになれば、日本人だって政治に関心を持つはずだ。

色々意見が出たのだが、その中で「日本人は「間違える」ということを極度に恐れるのではないか」というのがあった。そして、確かにそれは言えてるかも、と思った。

私もエントリを書く際、特にデータなどは間違わないように気を遣う。文章に関しても、意見に矛盾がないか、分かりにくい表現はないか、(これでも)結構な注意を払っている。

アメリカの人は、その点では比較的寛容なようだ。内容を精読するというより、斜め読みで全体を把握し、その人の意見の大体の傾向をつかみ、そこから議論を始める。「俺はこう思うんだ、お前はどうなんだ」という具合に。
教育にも取り込まれるほど、幼いころからそういった「議論」に慣れているため、異なる意見は常に並存するものだという「常識」が根底にあるのだろう。お互いの立場を尊重しつつ、自分の理解を深めるためにも議論を好む。

一方日本は、発表する際に完璧さが求められる。少しでもおかしな点があろうものなら、その意見すべてが信用ならない、という事態になりがちだ。それに、嬉々として粗探しをしようとする人も出てくる。
データの間違いがあろうものなら、それが単純なものだとしても、鬼の首を取ったように指摘し、あげくには「捏造だ」とまで言われかねない雰囲気が、日本のブログ界、ひいては全体にはあるような気がする。

匿名であるのに、間違いを犯すことは恐れる。
そのあたりに、日本人の、よく言えばきめ細かさ、悪く言えば意見を否定されることへの過度な恐怖が反映されているのかもしれない。

どちらがいいとは思わない。それは文化の違いであり、どちらも尊重すべき事柄だから。
ただ、まったく同じものを与えられても、このような差が出るというのは非常に面白いことだし、これから登場するであろうさまざまなWebサービスはもちろん、既存のものでも、人種や民族にうまくあてはめていけば、まったく違うアプローチができるのかもしれないと思った。

[映画]善き人のためのソナタ フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督

評点:92点(100点満点中)

東西分裂時代の東ドイツ。言論や思想を統一する役目を担っていたシュタージは、ある劇作家が過激な思想を持っているとの情報から、24時間体制での盗聴を行う。

そのシュタージの権力者で国内の演劇界を牛耳る大臣は、その作家の恋人で美しい女優を我が物にするため、弱みを握っては情事を重ねようとする。

盗聴を担当した、物語の主人公ヴィースラー大尉は、日を重ねていくうちに自らの業務に疑問をもつようになり…

主人公は、スーパースターもヒーローでもない。ただ組織の命令で忠実に任務を全うしようとする、実直で孤独な男だ。
その男を通し、東ドイツという特異な社会情勢と、いつの時代も変わらない人間の内面を深く、鋭く抉りだしている。

権力、性欲、金銭欲、そして自由への渇望。
それだけではない。悲哀、愛情、信頼、傲慢など、この作品で描かれる人間の姿は数限りない。普段、誰もが心のうちに秘めていて表には出さないような感情を丸ごと外に引っ張り出されるようで、思わず心を背けたくなる。観ているだけで、自分の内面を見透かされているようで胸が痛むのだ。

正直、今までこの作品を観なかったことを後悔した。今まで観てきた映画の中でもトップクラスに入るほどすばらしい作品だった。

確かに、終盤において展開が急速になり、テロップによる「そして○年後」が多用されているが、それもあまり気にならないほど、作品として完成されている。

もし未見の方がいれば、すぐにでもご覧になって欲しい。特に中高年の男性にオススメだ。きっと、涙なくては観られないだろう。

そしてこれは裏話だが、何と主演のウルリッヒ・ミューエは、私生活で実の奥さんに密告され、本物のシュタージに監視されていたという。同じ時代を生きていても、これほどまでに背負う過去が違うのかと慄然とする。そんな彼が演じるからこそ、このように深い味わいのある作品に仕上がったのだろう。そして、それを監督したのが1973年生まれの若い才能であったことも付記したい。

2006年のアカデミー外国語映画賞を受賞。しかしその後すぐ、主演のウルリッヒ・ミューエは胃がんで亡くなられた。
正直、彼の作品をもっと観たかった。