『Google予測変換八分』は存在するのか

今日、何気なくFirefoxの検索ウィンドウに「ライブドア」と入力したら、この単語が予測変換に現れないことが分かった。「livedoor」でも同じだ。

「ライブド」まで入力しても出てこない。
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「live」まで入力すると「live door」とスペースが離れたものが表示されるが、
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「livedoo」まで入力すると、「livedooor」などと「o」がひとつ多い検索候補が表示される。
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これはどう考えてもおかしいだろう。「ライブドア」と「livedoor」を非表示にしてるとしか思えない。

ちなみに、Yahoo! JAPANの検索では以下のように「l」や「ラ」一文字でも、先頭に表示される。

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一時「Google八分」というのが話題になったが、「Google予測変換八分」というのも存在するのだろうか。それとも、ただの私の勘違いだろうか。

それにしても、いつからこの状態だったのだろう。まさか、あの事件以来ずっとだったりして。
他にも同じような単語はあるのだろうか。

カフェスタ終了に思う SNSの収益の難しさ

カフェスタが終わる。このニュースは私にとって、結構な衝撃であった。
ピンチだからアバター買って」と訴えたのは記憶に新しいが、そのときから今まで「カフェスタもか…」とある種の絶望感に包まれた。

カフェスタの開始は2002年7月。mixiとGREEが2004年なのだから、その早さが分かる。
アメリカのFriendster、Myspaceではなく韓国に影響を受けた、事実上日本初の本格的SNSサイトだったのだ(「SNS」という言葉すらまだ存在しなかったが)。

もちろん今のmixi程度の規模ではないものの、彼らは一時期は日本のコミュニティサイトのさきがけとしてその地位を独占し、収益も上げていた。「カフェスタの一人勝ち」と言われていた時代もあったのだ。
しかし、彼らのライバルはすぐに現れた。それが「ハンゲーム」だった。同じく韓国の流れを受けた同サイトは、持ち前の「ゲーム開発力」であっという間にカフェスタを追い抜いた。それまでカフェスタも自前の「カフェスタゲーム」というものを持っていたものの、ハンゲームに比べればあまりにも貧弱であった。

個人的に、カフェスタの敗因は「アバターそのもの」にもあったと思う。

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上がカフェスタで下がハンゲームのそれだが、カフェスタのアバターは語弊を恐れずに言うならば、どうも「韓国くさい」。日本人が好むような絵柄ではないと思うのだ(実際、韓国のアバターは今でもこんな感じだ)。
両者がメインターゲットとしている低年齢層の日本人にとって、どちらが「かわいい」と感じるかと言われれば一目瞭然だろう。
しかし悲しいかな、アバターのデフォルトはそう簡単に変えることができない。カフェスタは、このアバターのまま戦わざるを得なくなった。

ショックなのは、カフェスタの収益体系(内訳は別として)が「広告依存ではない」ということもある。現在主流であり、GREEがmixiを追い越す原動ともなった「小額課金」を古くから導入しているのだ。
しかし、それでもカフェスタは終了せざるを得なかった。事業を拡大しすぎたのか、本当の理由は知る由がないが、アバター課金自体に成功しているところがある以上、元祖がこういった結果になってしまったのは非常に残念だ。

そして、やはりコミュニティサービスで儲けるのは非常に難しいと感じざるを得ない。
「人を集めて広告収入」ができているのは本当にごく一握りだけで、あとの世界中のほとんどのサイトが収益化できていない。毎日同じ人が頻繁に訪れるというコミュニティサイトの性質上、広告のCTRが非常に低いというのもあるだろう。

では何で儲けていくのか。小額課金か。GREEはそれで成功した。しかし、それを最初からやったサイトですら失敗に終わるのだ。

個人的には、それでも小額課金しか生き延びる方法はないと思う。有料会員制が厳しい現状、やはり「払う人にはとことん払ってもらう」という方式しかないのではないか。
そしてそれに伴い、マッチング、検索連動型、行動連動型、友だちフィルター型… さまざまな広告が導入されていくだろう。

コミュニティサイトの生き残りは、今後ますます激しくなっていくのだろうと思う。

[読書]実戦! 行動ファイナンス入門 真壁昭夫

「人は、得したときの嬉しさより、損をしたときの悲しみの方が大きい」

投資を行うものにとっては一般的な言葉だが、その仕組みを平易な文章でうまく解説してある。
伝統的な経済学理論には「人は完璧な理論を持って、合理的に動く」という前提があるが、実際には人は感情によって動く動物であり、その点に着目したのが「行動経済学」というジャンルである。本書はその名のとおり、その行動経済学の入門としては非常に適していた。「価値関数」「リファレンスポイント」などの専門用語への言及もある。

実際に投資を行う自分にとっては、「そうなんだよなぁ」とか「まぁ、分かっちゃいるんだけどねぇ」と、痛いところを着かれるような記述が豊富で、自分の投資活動を振り返るよい機会ともなった。

ただし、本当にかなり基本的なことが中心なので、ある程度の知識がある方、投資の上級者の方にとっては当たり前すぎる内容かもしれない。そういった方には、第二章まで読めば十分かもしれない。

[読書]生きながら火に焼かれて スアド(訳:松本百合子)

愛する男性と婚前交渉をしたという理由で、ガソリンを頭からかけられ焼き殺されかけるという経験を記した書。2003年にフランスで刊行され、ベストセラーとなった。

著者が住むシスヨルダンは、国全体に警察の手が回らないこともあり、そのような「名誉の殺人」が当然の風習として今も残っている。
女性は婚前交渉はおろか、男性との会話や目を合わせることすら許されていない。それどころか、女性は男性の完全なる支配下にあり、男の赤ん坊を産むこと以外「無価値」とされ、毎日鞭で打たれて奴隷のように働く。勝手に家の外に出ることすらかなわない。このような地域が、世界にはまだあるのだ。

地域社会は「建前」を何よりも重んじ、女性のそのような行為は家族にとって最大の屈辱であると考えるのだ。だからこそ「名誉の殺人」はその行為者が褒め称えられることすらあれ、被害者に同情する人などいない。
この違いはまさに圧倒的だ。ちょっと想像すらできない世界である。

著者はこの地域の様子、価値観、日々の生活を克明に描いている。衝撃的な事実は数多いが、そのひとつに、著者の母親が出産をしてその赤ん坊が女の子だと分かった瞬間殺害する、というものがある。兄弟は元々女性が多く、これ以上は必要ないと考えたからだろうと言われる。著者は、複数回そのような光景を見たと伝える。そして、次の日からは何事もなかったかのように日々が始まるというのだ。
文体で見るだけでも痛みに襲われる。

そして、著者は結婚の約束をした愛する人の子どもを、半ば強引な行為によって身ごもってしまう。それ自体、本人は悪いことだとは分かっていたが、すぐに結婚さえすれば何とかなるだろうと考える。

しかし、男性は裏切った。著者は絶望の闇に落ちる。周囲に悟られにうちに堕胎しようと、自らのお腹を角に強くぶつける描写などは、あまりにも辛すぎる。

そして、その日がくる。著者は姉の夫によって髪の毛に火をつけられる。
何とか生き延びたものの、やけどによってあごと胸が癒着してしまうほどの大やけどを負う…

その後、身ごもった子どもの出産、国外脱出、新たな相手との結婚と出産、と彼女の半生が綴られる。そのあまりにも壮絶な人生に、本当に言葉も出ないほど圧倒される。

世界にはさまざまな文化があり、特に近代では、それらは尊重すべきものだと思うが、やはりこれは悪習だといわざるを得ない。男女が平等である云々ということではなく、最大限に尊重されるべきは「生命」であり、何物をもそれより上位にくるべきではないと思う。
日本でも「名誉」や「尊厳」が重要視されていた時代が、そう古くない過去にあった。今でもそれを重要視している人は多いとは思うが、一般的には「名誉を汚したので死んで詫びる」という風潮はなくなっているだろう。日本は変わったのだ。

著者が育ったこの地方だって変われるのではないか。変わって欲しい。価値観を押し付けるわけではなく、そう思えて仕方ない。

この本唯一の救いは、エンディングだ。とてもすばらしい(著者は存命なので、あくまでこの本での)ラストには、胸が熱くなる。
本書は、現代を生きるすべての人にとって読む価値のある、一度は読むべき書だろう。

メディアは「新型インフルエンザ感染者第一号」を待っている

新型インフルエンザの報道は、やれどこの誰に「感染の疑いがある」とか、メキシコでは何人亡くなったということばかりで、無為に不安を煽っているように見受けられる。
「パンデミック」というある種のバズワードが一人歩きし、場合によってはペストやスペイン風邪のように、世界中の何割もの人が死に至るかのように一般市民をおびえさせているような気がしてならない。

ここはいったん落ち着いて、現状を再確認してみたい(エントリ執筆時点)。

    ・メキシコ国内での感染は落ち着き始めている
    ・ウィルスはあくまで弱毒性で、完全に治癒した人もいる
    ・メキシコ以外で亡くなった方はアメリカ人に一人。ただし、元々持病を持っていた
    ・今回のウィルスの分類である「H1N1」は、過去のスペイン風邪、香港風邪と同じ(分類が同じでも対処法は同じではない)
    ・現時点では弱毒性でも、強毒性へ変異することがある
    ・「パンデミック」は人から人へ感染することが、世界の一定範囲で確認された場合に宣言されるもので、ウィルスの強さや致死率などとは無関係
    ・新型でない(季節性の)インフルエンザが5月になってもいまだに収束しておらず、患者数は数千人規模ではるかに多い

という感じで、もちろん注意すべき点はたくさんあるものの、世界人口の何%が死んでしまう、というようなことは考えにくい。
むしろ、秋に訪れる可能性があるといわれる「強毒性への変化」と、それに対するワクチンの対応状況などを積極的に報道すべきではないのだろうか。

こういうと語弊があるだろうが、メディアはある意味で日本ではじめて感染する人を待っている節がある。
強きを挫き、体制の闇を暴くのが彼らの仕事のはずだが、実際のところわが国のメディアがそうなっていないことは、もう認めざるを得ない。視聴率や発行部数が何より大事なメディアにとって「日本初の新型インフルエンザの感染者」というのはセンセーショナルな衝撃をもってトップニュースになるはずだからだ。

「メディアは国民を映す鏡」というけれど、過剰に反応すればするほど、おかしな方向にいくような気がしてならない。
少なくとも、海外から帰ってきた「疑いがある」程度の人をいちいち数え上げて報道しているのは、日本くらいのものではないだろうか。

慎重なのはいいとしても、インフルエンザで高熱にうなされている子どもや若者に対し「良かった。新型じゃなかった」と胸をなでおろす、みたいなのはちょっとおかしいだろう。