セブンイレブンが「安売り」を極度に恐れる理由

タイトルの件を、先日セブンイレブンの関係者の方に聞いたのでPostしたい。
※ただし、個人的な意見の枠を出ません。

一般的に言われている通り、コンビニで値下げを行うと

     ・通常の時間帯での売り上げが落ち、利益率が低下する
     ・廃棄分の処理費用が加盟店の全負担

という問題がある。これに対して世論は

     ・利益ばかりを求める企業体制はいかがなものか
     ・食べ物を粗末にすることはもったいない

という反応だ。
そしてその世論に押されるように、先日公取が排除命令を出した

しかしセブンイレブン側は、それでも「安売り」を断固拒否する構えだ。そのためには「廃棄費用を15%負担する」とまで言った。これはすごいことだ。フランチャイズ店からしたら、単純にその分のお金が懐に入ってくるようになるのだから。

しかし、なぜ彼らはここまで安売りを恐れるのだろうか。

それは「アメリカのセブンイレブンが破綻した一因だったから」だそうだ。
同じ系列店同士で価格競争を行った結果、消耗戦に陥ったということだろう。

通常、100円で10個売れて2個余っていたもの
 →余った2個を値下げで売る
  →通常料金で買っていた人も値下げを待つ
   →通常料金が売れなくなり、値下げが加速する

というイタチごっこだ。

だからこそセブンイレブン本部は、加盟店に多少の無理を強いてでも、全体の価値を守るために懸命になっているのだ。まるで針の穴から土手が決壊するのをふさぐように。

よくよく考えてみれば、値引きが当たり前のスーパーというのは大型店が多く、それは周囲の小売店や他社系列のスーパーへの優位性を示すためだったりする。いわゆる「物量作戦」で古くからの八百屋さんや魚屋さんを蹴散らしたわけだ。

かつ、コンビニは「24時間営業」「すぐに何でも揃う」という付加サービスもセットになっていると言える。
「確かにスーパーに行けば安いけど面倒だからコンビニでいいや」というのは、イコール時間に対して対価を支払っていることになる。本来スーパーでしなければいけない買い物の時間に遊んでいたから、深夜にコンビニで弁当を買うわけだ。

消費者にとってはそりゃ安い方がいいのだけど、コンビニエンスストアという業態自体が、安売りではなく「便利さ」を売り物にしていることは忘れないほうがいいと思う。

食品の廃棄の問題はどうだろう。
経営の基本だが、例えばある商品を100個仕入れて完売させたら、一見大成功のように思える。
しかしその商品はもしかしたら200個売れていたのかもしれない。だとすると、それは仕入れを失敗したことになる。

究極の形は「売り上げとピッタリの量を仕入れる」ことだが、それは不可能だ。
だから経営者は「予測される売り上げよりちょびっとだけ多め」を予測して仕入れる。そのため、基本的に廃棄がなくなることはない。

そもそも食料廃棄問題はコンビニだけの話ではないし、少なくともセブンイレブンは廃棄した食料を肥料にし、そこからまた食品を作るというリサイクル事業を始めている。

確かに「食べられるものを廃棄する」ということに抵抗感はあるが、読売新聞の社説のようにそれをただ「もったいない」と切り捨てるのは、あまりにも経営を知らなすぎだ。

別にコンビニの回し者でも何でもないが、「本当はもっと安く買えるのに、本部が強権を発動している」「食べ物がもったいない」というような分かりやすい論調が前に出るとつい納得してしまいがちだが、反対側の意見も知っておくと考え方が広がると思うので書いてみた。

少なくとも、何でもかんでも「安くしろ」ではなくて、「高いのはちゃんと理由がある」っていうのを忘れない方がいいとは思う。

マイケル・ジャクソン 世界でもっとも敬われ、もっとも罵られた男

マイケル・ジャクソンが死んだ、と聞いた時、私は何の実感もなかった。
「あぁ、そうなのか」と何か「1+1=2」という数式を聞いたような感覚しか湧かなかった。

彼は人間とか、生物とか、そういった「実体」を超越して存在した個体なのだと改めて知った。

「君たちに見せたい、いや、君たちこそ見るべきだ」と言って、授業の時間を割いて「Thriller」と「BAD」のVCを見せてもらったのは、夏の暑い日だった。
重いベータのビデオデッキをえっちらおっちら運び、嬉々としてビデオを再生してくれたその音楽の教師には、感謝してもしきれない。

特に「Thriller」は幼い私にはあまりにも恐ろしく、正視できないものだった。しかしそれでも、これが何かとてつもないものだとすぐに認識した。

それは、私の人生に決定的な影響を与えた。こんな風に、人を心の底からワクワクさせる、楽しませることがしてみたいと思った。

しかしその時でさえ「こんな人になりたい」とは到底思えなかった。それほどまでに、彼はあまりにも遠い存在だった。

彼のような真の意味での「スーパースター」は、もう現れないだろう。
そして、これほどまでに多くの人に敬われ、かつ罵られた男ももう出ないだろう。

ある人はあなたを神と崇め、あなたと同じように顔を整形した。そしてある人はあなたを口汚く罵り、軽蔑し、非難した。あなたのような存在を嘲笑して、精神の充足を得るために。

その心境は、いかばかりだろう。それに耐えるために、自己を守るために、精神の安息を得るために、心と体のどれだけを潰したのだろうか。
そしてそんな姿は、圧倒的な痛みを抱えて満身創痍で立ち向かう姿は、不思議に誰よりも人間臭かった。

あなたには「友」と言える人がいたのだろうか。
あなたと同じ目線で、あなたの悩みを親身になって聞ける存在があったのだろうか。

MJ、おそらく他の多くの人と同じように、私はあなたと共に生きたことを誇りにし、自慢するだろう。
誰でも努力すればなんだって可能だ。そう信じているけれど、きっと誰がどんなに努力をしても、あなたにはなれないだろう。

相変わらず、MJが死んだとは思えない。
ただ、どうやらもう新譜は出ないだろうことは分かってきた。それは、もう随分前から覚悟していたけれどね。

フィル・ミケルソンという男の生き方

全米オープンゴルフが終わった。
今年はルーカス・グローバーという、ゴルフ界では無名な選手がその栄冠を勝ち取った。
PGAツアーでわずか1勝という選手ながら、世界4大大会で優勝した彼のゴルフ人生は、この後大きく変わることだろう。

そして、今回もまた2位に甘んじた選手がいる。フィル・ミケルソンである。
タイガー・ウッズがあまりにも浮世離れしているために、ゴルフファン以外にはその名が知られていないものの、世界ランキングはそのタイガーに次ぐ2位。
すべてにおいて右打ちが有利とされるゴルフにおいて、右利きであるにもかかわらずあえて左打ちにしたという異色の天才ゴルファーだ。

ミケルソンと全米オープンといえば、思い出すのは2006年だ。
首位で最終ホールを迎えた彼は、ボギーでも優勝という位置につけていた。それまで何度も2位に甘んじていた彼が、ついにゴルファー最高の栄誉を掴まんとしていたのだ。

スプーンを使って当たり前、アイアンで打っても恥ずかしくないティーショットを、彼はドライバーでフルスイングした。
元々それほど精度が高くないミケルソンのドライバー。悪い予感は当たるもので、打球ははるか左、観客席の中に飛び込んでしまった。
2打目もレイアップ(刻んで打つ)すればいいものの、強引に2オンを狙ってミス。結局このホールをダブルボギーとし、優勝トロフィーはオギルビーの元へ渡った。

グリーン上でうなだれるミケルソン。その後、誰もが知りたがった疑問である、
「あの時、なぜドライバーで打ったのですか?」

というインタビュアーの質問に、彼はたった一言こう答えた。
「それが私のゴルフだからさ」

夫人の乳がんが発覚し、5月に無期限の活動停止を発表したミケルソン。
しかしその夫人に後押しされて出場した今大会で、ついに大会最多となる5度目の2位を記録した。

彼の生き方には賛否両論あると思う。プロとして「勝利のためにすべてを犠牲にしない」姿を批判する人もいる。
しかし「自分の人生にとって何が価値があるのか」という壁にぶち当たったとき、彼のような生き方を見ると勇気付けられるのは確かだ。

彼はこの後、再び夫人の看病のためにツアーを欠場する。
「試合は終わった。この後はもっと大事なことが待っている」という言葉を残して。

この巨大宗教を我々はどれだけ知っているか [読書]創価学会 島田裕巳

国内最大級の宗教団体である「創価学会」。
日本人ならみなが知る団体であるのに、公の場でその名を口にすることが憚れるという、不思議な集団でもある。

しかし、600万世帯、1,000万人以上の会員がいる割に、我々(私)はその実に関してあまりにも知らなすぎる。
本書は、彼らを極端に非難するわけでも賛美するわけでもなく、その内実を設立から現在まで忠実にかつ中立的に記している。ある意味、非常に貴重な「資料」でもある。

創価学会は、牧口常三郎という人物によって創設された。
当初は宗教的な要素はなく、柳田國男や新渡戸稲造など当時の知識層が集まったインテリ集団だった。

その後、二代目の戸田城聖を経て、現在の池田大作にいたる。
池田は、実業家としてもその手腕を存分に発揮し、現在の創価学会は彼なくしては語れない。

それにしてもおそるべくは、池田大作のカリスマ性だ。創始者をもしのぐそれは、今も多くの信者や側近の心を捉えて離さない。

本書中にも創価学会の取材をした数々の著名な評論家が登場するが、そのすべてが池田大作に人間的に魅了されたという。
本書では創価学会への直接的な取材はされていないようだが、著者は中立的な立場を守りたかったために、あえてそうしたのかもしれない。

彼らがその力を伸ばしたのは、日本の国力がまだ弱かったころ。彼らは、主に地方から都会に出てきた労働階級の人々を取り込んでいった。
地方から単身上京した孤独感と、食うものも食えずの生活は今では容易には想像できないだろう。そんな世の中で「入信すれば救われる」「仲間もいる」と誘われれば、責めることはできない。

芸能人の入信者が多いのも創価学会の特徴だ。本書では、その理由も列記している。興味のある方はぜひ読んでいただきたい。

前述のように、著者は基本的に中立的な立場ではあるが、最後にある警鐘を鳴らす。
それは、創価学会が力を伸ばした当時の世相と、格差が広がり貧困層が増えた現在が似ている、というものだ。それを彼らが感じてないはずがない。貧困層の広がりは、ある特定の集団にとってはチャンスでもあるということだろう。

彼らを一概に「危険」であると言うのはナンセンスかも知れないが、政教一体となり巨大な力を持っていることは確かだ。
腫れ物に触るように、「社会の暗部」として押し込めてしまうのではなく、自分たちの一部としてきちんと見つめていなければいけない存在なのだろう。

「食わず嫌い」をせず、ぜひ読んでいただきたい一冊だ。

TwitterになりそこねたYahoo!

「思ったことをひたすらつぶやき続ける」
他にもさまざまな要素があるものの、基本的にはこれだけで爆発的な人気を持つことになったTwitter。しかし、実はこのTwitterになり損ねたサービスが米国のYahoo!にあった。それはつい先日終了することが決まった「Yahoo! 360°」だ。

Yahoo! 360°は2005年3月、完全に後塵を拝したMySpaceに追いつくべく開始されたSNSである。
日記や写真、プロフィールなど、SNSとして最低限の機能がすべて備わっていた。

そして、Yahoo! 360°には「blast」と呼ばれる特徴的な機能があった。これは「何気ないひとこと」を書くものであった。
吹きだしの形にデザインされた見た目は、現在のmixiのエコーに似ている。ただこのblastは、その日の気分によって吹きだしの形を変えたりすることもできた。
090615

※拾い物で恐縮ながら、②と表示されているところがblast

しかし、決定的な違いがあった。blastは上書きされてしまう仕様だったのだ。
あくまで「何気ないひとこと」を書くためのものだという位置づけだったのか、blastは新たに書き込むと前のものが消えてしまった。もちろん、個別のURLもない。
「履歴を残したかったら、短くても日記に書くだろう」スタッフはそう思っていたのかもしれない。
そのほかには「返信が投稿ではなくメッセージで行われる」という特徴もあった。

遅れること1年4ヶ月、2006年7月にTwitterが始まる。

その後の流れはご存知の通り。
かたや、膨大なデータベースからGoogleをも脅かす存在になろうとしているTwitterと、サービス終了はおろか、会社自体も傾きつつあるというYahoo!である。

もちろん、Followの概念だとか、積極的にオープン路線をとったことが勝因の大きな部分だろう。
しかし、もしあの時Yahoo! 360°が「blastを日記と同じように残せるようにしよう」と判断していたら、その頃のYahoo!の力を考えれば今頃Twitterはなかったかもしれないし、Googleと対等の力を持っていたのかもしれない。

ちょっと考えすぎかもしれないけど、ほんの些細な決定が、その後大きな違いをもたらす、ということは往々にしてあるのではないだろうか。
それは「最先端の技術の誕生」ということでなくとも、ちょっとした発想の転換によることもあると、この例が示しているように思う。