当ブログにもあるが、個人的に使うためのTwitterアカウントがもうひとつあった。
実名は出していないが、自分のアイデンティティーを理解している人を中心にフォローしあった。
必要に迫られて始めたものの、確かにこれは面白いと感じた。
いつの間にかTLを毎日眺め、寝る前にはすべてのレスを確認し、自分の発言にRTがつけば喜び、@つきの発言には丁寧に返信していった。
要するに、はまっていたのだ。
しかし、ある時ふと思った。
このままでは、自分はゆっくりと崩壊していくのではないか、と。
私が尊敬している人の一人に、Web系を生業としているにも関わらず、Twitterをはじめとしたソーシャルサービスをまったくやらない方がいる。
彼女はいわば貝のような人で、交際範囲も広くはない。
しかし、自分が深く愛する人たちに囲まれ、とても幸せに暮らしている。
きっと「Twitterとかやってくださいよ」と言っても「そうね。でも私はいいわ」と笑顔でかわされてしまうだろう。
そういった生活がしたいわけではないけれど、ひとつ確かなのは、彼女が強靭な精神力を持ち、とても満たされていることだ。
自分を振り返ってみると、やはり愚痴や不満の類が少なからずある。
不快な思いをしたとき、何となくそれを吐き出したくて、慰めてもらいたくて、携帯電話やパソコンに向かう。
それは不満を発散するためにも正しい使い方の一つであり、否定するつもりはない。
ただ、あくまで個人的に、こんなことを続けていたら、嫌なことを飲み込めなくなる体になってしまうのではないかと思った。
彼女、もしくは多くの人のように、何かあってもぐっとこらえて、家事やら炊事やらいつもの日常を淡々と続けていける人ほど、強い人間なのではないかと思えてきた。
そして、自分のつぶやきはほとんどが「ネタ」系のものだった。
面白いことを発見したとき、思いついたとき、誰かに笑ってほしくて「ネタ」を投下し、反応があれば素直にそれを喜んだ。
しかしそれは、目の前にいる友人と世間話をしているのとは何となく違うのではないか……
思い出話を、近況を語り合って笑いあうのはその場の時間を楽しむためが主。
これがネット上では、自分の欲求や胸の空白を埋めることが主なのではないか。たとえば、渾身のネタに反応が薄ければ、理不尽としか言いようのないいらつきを感じた。
それに、自分の意見に共感を得て、賛同してもらいたくて、賞賛してほしいのは、そもそもこんなちっぽけな場所じゃない。
もっと労力をかけた大きなものを作ってそれを公の面前にさらし、これこそが私がやりたかったものだ、私が生きている意味なのだと強く言いたい。だからこそ、私は生きているはずだ。Twitterでそれを切り売りしている場合じゃないはずだ。
そう思い、今までの書き込みをすべて消してTwitterをやめた。
もしかしたら、いつの日かまた「戻ってきちゃいましたwww」なんて言って再開するかもしれない。私は弱いから。
しかし少なくとも今は、辞めてよかったと思っている。
今まで、一瞬の感情の動きだけで喧騒の中に吐き出していたものが、自分の血肉になっていくように思えている。