「すきま時間」の奪い合いからWebビジネスを考える

娯楽に関するWebビジネスについて「すきま時間をいかに奪うか」をキーに考えてみた。

テレビ、新聞、ラジオなどの旧来のメディアも、基本的には暇な時間をいかに奪うかが目的であった。
昔、皆が巨人戦をテレビの前で観戦したのは、野球中継しか娯楽がなかったからとも言える。バラエティ番組もしかり。

しかし今はその可処分時間に対してネットというライバルが現れた。ブログ、SNS、twitterなど、人々はすきま時間に新たな娯楽を覚えたのだ。

そういった意味では、モバイル端末はまさに格好のデバイスだ。移動中、就寝前、休憩時間など、肌身離さず持ち歩くこの端末には、まだ様々な可能性が眠っているだろう。

今や社会現象ともなった「ソーシャルゲーム」も、ゲームとして見れば非常に単純なものばかり。いわゆる「ゲーマー」達が「クリックゲー(クリックするだけの単純なゲーム)」と揶揄するものである。
例えばPCゲームの歴史を紐解くと、このクリックゲーは極端に嫌われた。PCでゲームをするようなゲーマーには、あまりにも物足りないからである。ゲーム開発者たちは、ゲームシステムをより複雑に、グラフィックをより洗練させることでユーザを満足させようとした。

しかし多くのマジョリティには、その複雑さは到底受け入れがたいものだった。結果、誰にでもできるほど単純で、暇な時間を埋められる「クリックゲー」が賛辞をもって迎え入れられたのだ。

ただそのクリックゲーも、家に帰ってリビングでやる人は多くないと考えられる。PCやテレビ、その他多くの魅力的な娯楽に対し、その手軽さは一気に「いつでも出来るもの」に格下げされてしまうからだ。

YouTubeやニコニコ動画などの動画コンテンツもしかり。PCも含め、小さな端末で見るのに2時間の映画は適さない。2、3分、長くて10分程度の面白く手軽な動画を求めて、人々は端末を操る。
旧来型の考えに凝り固まっていると、いかにして映画やテレビなどの旧来のソフトをネット経由で見せるかにこだわってしまう。もちろんそれも将来的に大事だが、今この瞬間に求められているのはもっと手軽に見られるメディアであり、ソフトなのだ。

それでも、ソーシャルゲームやニコニコ動画をやらない人もまだまだ多い。この次に来るものは、果たしてなんだろうか。

手軽、短時間、暇つぶし

これらをキーワードにして考えると、次の波が生み出せるかもしれない。

コミュニティサイトを形作るもの

普段何気なく使っているコミュニティサイト。しかし、作る側は当然様々な計算を施している。
何気なく作ってもうまくはいかない。

ショッピングサイトは「購買欲」をいかにくすぐるかが勝負だが、コミュニティサイトも人間の「欲」をうまく満足させることが肝であり、その「欲」は普段表に出せないものが多い。

その欲とは何か。
最近コミュニティサイトを作ることになったので、自分のまとめのために書いとく。

■自己顕示欲

コミュニティサイトに入って、まず最初に心地よさを感じるのがこれ。
通常のサイトは、基本的にすべての人にとって平等に作られているが、コミュニティサイトはそれぞれ見ているものが異なり、各人にとってオリジナルだ。
そこには嫌な上司もいなければいじめっ子もいない、すべての中心が自分である快適な世界が広がっている。例え、現実の世界ではそうでなくとも。

仕事の愚痴を聞いてくれ、身の回りで起こった些細なことにも同調してくれる友人がいる。この「心地よさ」をくすぐるのが、コミュニティサイトの第一の肝だ。
そのことによって、多くの人が自己を惜しげもなく披露できる。

「目立つのが嫌い」と口で言う人は多いが、どんな人間でも自分に注目が集まるのに心地良さを感じることがある。

例:日記、アルバム、(バッジとしての)コミュニティ

■所属欲

人間は、集団に属することで気分が安定する。もちろんマイノリティである自分に酔いしれるときもあるが、常にひとりでいることには絶対に耐えられない。それはすなわち「孤独」だからだ。

ある一定以上の社会的つながりを持っていなければ、人間は正常に生きていけない。アレキサンダー・セルカークだって、一生一人で過ごしてはいない。

例:コミュニティ、ファンページ、ハッシュタグ

■自己肯定欲

自己顕示欲と近いが、多くの人は「自分を認めてもらいたい」と願うものだ。
面白いと感じたことや、趣味や嗜好に同調してもらえること。それは、最高の安心感を伴って自己を内面から肯定してくれる。

そして他人の情報を見ているときにも、実はそれを感じている。
自分の日常は憂鬱で退屈なものだと思っているが、近しい友人も同じような生活をしている。本当にやりたいことがあってもやれない自分がいる。でもそれも自分だけじゃない。友達もそうだ。
良くも悪くも、人は他人を見て安心感を得ようとするものだ。

例:あしあと、イイね、日記へのコメント、他人の日記

■新規牲

欲とは異なるが、これはコミュニティサイトで最も中毒牲のあるものだ。
ややもすると、多くの人が「飽き」や「手間」から、自己発信をやめてしまう。
しかしそれでもコミュニティサイトにアクセスするのは、そこに新しい情報が待っているからだ。ほとんどの人にとっては取るに足りない、しかし当人にとっては面白い、親しい友人が発信する情報がそこにはある。
例え自分が更新をしなくても、頻繁にアクセスしてしまう。逆に友達が誰も更新をしなくなったら、自然と足が遠のく。

YahooのトップページやGoogleNewsに何度もアクセスしてしまうのも、原理は同じだ。

例:あしあと、友達の更新情報

■関係性の復活

SNSにしばらくアクセスしなくなっても、退会する人は稀だ。それは、いつ来るかもしれない旧知の友人からの便りを待っているからである。
今までの社会では諦めるしかなかった関係性が、いつの日か復活するかもしれないからだ。
個人的には、これこそがコミュニティサイトでもっとも価値のある点だと思っている。

例:友達検索、友達申請

コミュニケーションを上手に行うことは、人生を豊かにし有利にする。
しかし、それをあからさまに行うと、結果的に失敗する。うまいこと隠しつつ、それでも欲求を満足させつつ……

コミュニティサイトを作るのは中々どうして難しい。