掲題の件。
世の中的に「原発反対」ムードが漂っているが、私自身ちょっと違和感があるので書いておく。
学生時代、日本の電気事情についてレポートを書くことになり、原発のことをほんの少し調べた。
きっかけは単純で、なぜキケンと分かっている「原子力」に頼らなくてはならないのかと疑問に思ったからだ。私もそもそもは結構な原発反対派だった。
結果、今の電気料金と生活水準を保つためには、CO2を多量に排出する火力発電よりクリーンで、水力発電よりはるかに優れた力を持つ原子力は不可欠であるという結論に至った。
その経験があったからなのかは分からないけども、「東電にダマされた」「全部ウソだったんだ!」などと、突然被害者面をするのはいかがなものかなと思ってしまう。
そもそも、原子力発電が「絶対安全」な訳がないのは少し考えれば分かる。「安全神話」なるものがあったとして、それはマスコミや電力会社が創り上げた虚像だ。
そのリスクを冒してでも、我々は高度に安定した生活を選択したのだと思っていたのだが違ったのだろうか。
だから、自動車事故や炭鉱事故の死者数と比べてこれだけ安全! なんてとんちんかんなことを言うつもりはない。
比較するのであれば、原発を含めた安定した電気の供給があったことで享受できたこの40年間と、それがなかったことを仮定した社会だろう。
極論を言えば、例えチェルノブイリのような事故が起きたとして、それで被る社会的・経済的被害と、数十年一秒も途切れることなく電気を受容し続けることの価値を比較し、後者の方を我々自身が判断したのではなかったのか。
子どもは別として、有権者であれば「そんなことは知らなかった」では済まされないはずだ。
もちろん、原子力に替わる安全でクリーンなエネルギーがあるなら模索すべきだと思う。
しかし、否定するなら代案を出せではないが、ただ安易に「原子力をやめろ」というだけなら誰にでもできる。
例えば電気料金が今の2倍になったとして、おそらく大多数の世帯はそれを支払っていけるだろう。しかし、日本の電力の4割を占める企業にとっては相当な負担となるはずだ。
益々企業の日本離れが進み、そのうち国内に仕事がなくなり、日本人の多くが中国やブラジルに出稼ぎに行くのが当たり前になるかもしれない。
脊髄反射的に「原発反対」を唱える人は、本当にそこまで考えて発言しているのだろうか。大げさだけども、炭で料理を作り、薪で風呂を沸かす生活に戻っても構わないと覚悟している人はどれほどいるだろうか。
3.11は日本人にとって非常に大きな意味を持つ。我々はここから自分たちの生活を後退しても已む無しとするか、リスクを抱えても今の生活水準を守っていくべきか、一人ひとりが判断しなければいけない必要に迫られている。