誰しも、好きなことをやって生きたいと願うだろう。
好きなことを仕事にしたり、誰とも交わらずに自給自足で生きたり、何もせずにただひたすら寝ていたいという人もいるかもしれない。
でも、中々そういうわけにはいかない。
多くの人は、生活の糧を得るために働かなければならないし、それは必ずしも好きなことではない。
毎日満員電車に揺られて、ランチを食べて、たまにお酒を飲んで、週に2日休んで。
季節や年月の移ろい、周囲や自分の変化、そして変わらないこと。
やりたいことをやれるわけでもなく、楽しみや喜びがあるわけでもなく、ただ毎日が過ぎ去っていく。
それは、ただ「生きるために生きている」という状態かもしれない。
そしてその状態とは、非常につらいものだ。
愛する者も、守るべき者も、目標もないのに、自分は何のために生きているのか。
大事なものを得られた人や、経済的に成功した人に、陰で笑われていると感じることもある。それに比べて、自分の人生は何て惨めなのだろうと。
老いて、誰にも鑑みられずに孤独の中に死んで、「あぁはなりたくない」と思われることもあるかもしれない。
そうやって生きてきた人生の最期に、人は、自分の人生は生き抜いた価値があったと思えるものだろうか。それは幸福なものだったと、生きてきた意味は確かにそこにあったと思えるだろうか。
たとえばそうでなかったとしたら、その一生には価値がないのだろうか。自分の人生はなんて無価値だったのだろうと、なぜここまで生きてきたのかその意味が結局わからなかったと絶望して死ぬのだろうか。
自分の命はクソみたいだったと、泣きながら死ぬのだろうか。
それでも、果たして生きていく必要はあるのか。
どうしたって逃げずに立ち向かい、何があろうが困難を乗り越えて進んでいかなければならないのか。
自分を生かしているものは、周囲を悲しませないためだけで、例えば明日、自分がふといなくなってしまっても悲しんでくれる人がもういないのだったら、そのまま消え入ってしまいたいと思うことがあっても、その感情を責められるだろうか。
答えはわからないし、正解はないけど、まぁそれでも、人生はクソみたいだと思うよりは素晴らしいものだと思えたらいいなとは思う。
まぁよかったかと、ある程度のゴールには達しられたと、健やかに幕を引ける日がいつかくるのだと信じたい。
生きていたいと思う気持ちは、防衛本能以外にもっと具体的に何かあるはずなんだろう。きっと。