「人見知り」は失礼であり、欠陥ですらあるという意識を持つこと

社会に存在する上で、他人とのコミュニケーションは避けることができない。今までもこれからも、数多くの人々と関わっていくだろう。

そして、いわゆる「人見知り」という言葉がある。シャイ、恥ずかしがり屋など言い方はいろいろあるにせよ、今回は初対面の人と会話するのが苦手な人と定義しよう。

たしかに性格は人それぞれであり、違いを認めあうことが相互理解の第一歩であるが、初対面の人とのコミュニケーションを疎かにすることを「人見知り」という、性格の一種として表現すべきではないと私は考える。

人見知りは、「あの人は人見知りだから仕方ない」程度で済ませられる問題ではなく、場合によっては相手にとって失礼であることを、大人であれば認識して行動すべきだろう(子どもは別)。

たとえば、相手の目を見て話せない、という状態。大人同士の会話において、これが「かわいい」なんて思われることはまずない。仕事だろうがプライベートだろうが、どんな状況であれ「失礼」以外の何物でもないのだ。

本人は「恥ずかしくて目が見られない」のかもしれないが、相手は自分が蔑ろにされていると感じる。その人にとって、自分は価値のない人間なのではないかと重い、自尊心を失うことになるのだ。相手の目を見ないだけで、それだけ相手をそこなっていることを意識するべきである。

また、初対面の人同士が初めて口をきくことを「アイスブレイク」と呼んだりするが、人見知りの人はこれが苦手である(だから人見知りなんだが)。しかしながら、最初はシャイでまったく口をきこうとしなかった人が、ブレイク後、急に饒舌になることがある。この時「この人はシャイだけど自分には心を開いてくれた」と喜ぶのは、よほど相手に興味を持っている(相手の方がはるかに格が上、または異性として惹かれているなど)場合以外にはない。

他人に話しかけるという行為は、人見知りの人にかぎらず、多くの人にとって簡単なことではない。相手は迷惑かもしれないし、無視されて傷つきたくないが、努力をして話しかけているのである。

話しかけられるまで黙りこみ、打ち解けてきたら怒涛のように喋りまくるのは、コミュニケーションコストを相手に委ねているだけである。相手に支払わせるだけ支払わせておいて、自分はいかなる損失も被らずに、コミュニケーションという快楽を得ようとしているだけだ。

「自分は他人と関わりたくないから、山の奥で一人厭世的な生活を送っている」という人は別だ。一人で生きていけないのであれば、たとえ本望でなくても、面倒でも、他人が不快にならない程度のコミュニケーションスキルを身につけることは義務であり、必須であるというくらいの認識を持つべきだろう。

別に心を開かなくても、仲良くならなくてもよい。ただ、会話すらできないのはまずい。