軽自動車のナンバープレートを白に変えれば、大きな経済効果があるのでは

昨今、優遇見直し論が活発な軽自動車。
それとは直接関係ないのだけど、軽自動車のナンバープレートの黄色、あれは意味があるのだろうか。

それまで白だった軽自動車のナンバープレートが黄色に変わったのは、1975年の排ガス規制法がきっかけだ。
環境保護が叫ばれ始めた社会情勢の中、軽自動車にも厳格な基準を設けるため、550cc(当時)の規制がかけられた。

その際、ナンバーが黄色になったのは、高速道路での普通自動車との違いがあったからだ。
・制限速度が異なっていた(80km)ため、視認による取り締まりを容易にするため
・料金が異なるため、料金所の係員がすぐ分かるように

しかし、制限速度の違いはもう撤廃されたし、料金もETCで支払うのが当たり前になっている。
それ以外に、道路上で普通自動車と軽自動車を見分けなければならないケースはあるだろうか。

税金の管理上、普通自動車と区別する必要があることは認めるが、それはどこかのデータベースでやればいいことで、普通自動車と軽自動車の違いを、公衆の面前に晒す必要はもはやないのではなかろうか。

私は車に疎いので、正直見た目だけで軽自動車と分からない車もある。
ナンバープレートが黄色だから「あぁ、これも軽なんだ」というのが結構ある。

日本人の「見た目を気にする気質」はバカにできないものがあって、黄色を白に変えるだけで、結構な経済効果があるのではとずっと思っている。

黄色ナンバーを気にして、軽自動車の購入を思いとどまっている人は相当数いるはず。
何か意味あるんでしょうかね。

「大衆の時計」ロレックスが、どうして高級時計の代名詞となり得たのか

「高級時計ブランドといえば?」と聞いて、思い浮かべるのは何だろう。
おそらく、多くの人が「ロレックス」ではなかろうか。

しかし時計業界の間では、ロレックスは決して高級時計ではなく、むしろ「大衆向け時計」である。

本当の「高級時計」とは、パテック・フィリップ、オーデマ・ピゲなど、スイスの老舗ブランドであり、これらの前では、はっきり言ってロレックスなどおもちゃのようなものだ。

パテックやピゲは、日本では「雲上ブランド」とも呼ばれ、普通の人にはなかなか手が届かない。
安くても200万円くらいから、高いものは上限がない(それこそ10億円以上とか)が、中央値で500~700万円程度だろうか。
ロレックスは50万円出せばそこそこのものが手に入る。

なのになぜ我々は、「高級時計といえばロレックス」と思うのか。
その理由は、ロレックスの神がかり的なマーケティング戦略抜きには語れない。

まずひとつは「貴族階級への反骨」というメッセージを明確に打ち出した点。

欧州では未だに階級意識が強く根付いており、その階級間を行き来することはとてもむずかしい。ほぼ不可能だ。

パテック・フィリップやコンスタンタンの時計は確かに素晴らしいかもしれない。しかし腕時計に1,000万円を費やすなど、どう考えても常軌を逸している。溢れるほどに金を持っている人が、さらなる道楽のために購入するのが彼らの時計である。

そんな中、数で他を圧倒する「労働者階級」を代表する時計として、ロレックスはそこに存在を示した。20世紀の急激な経済成長に乗ったことも大きかっただろう。

また、価格帯の妙もある。

ロレックスの時計は、売れ筋で50~100万円くらいがボリュームゾーンだろう。

「ちょっと高いけど、がんばればなんとか買える」という価格帯に、相応の高級感と機能性をもってブランド展開をしたロレックスは、「持っているだけでステータスとなる」という、ブランドとしては最高のイメージ構築に成功したといえる。

ちなみに、ロレックスにしろパテックにしろ、時計の原価はかなり低い。一説では、製造元の利益率で40%を超えるのではという話もある。
時計の値段のほとんどは、そのブランドの名前なのだ。

もちろん、性能も素晴らしい。

1,000万円のパテック・フィリップの懐中時計を水に落としたら一度で故障するだろうが、ロレックスのサブマリーナは海中深く潜ることができる(ただ、機能と価格で考えると日本のセイコーやシチズンが最強だと思う)。

こうしてロレックスは、時計にあまり詳しくない人たちに、あたかも「世界一高級な時計ブランドはロレックスである」というイメージを刷り込むことに成功した。こういった例は他にあまりない稀有なものだ。

可視化されたのはバカではなく、義憤に燃えた人たちではないか

「バカが可視化される時代」とどう向き合うか
「うちら」の世界

この二つの記事の「バカをやっちゃう人」については、ほぼ同意見だ。彼らは昔から一定数以上いたし、これからもいつづける。
視野範囲は狭く、ネットに顔写真を載せることの本質をきちんと理解していない。リアルで干渉されないのに、なぜネットではこんなに袋叩きに遭うのか、その感覚もよく分からないだろう。

そういう意味で「バカが可視化した」というのは確かにその通りだけど、おそらく、もっと明確に我々の目の前に現れた、今まであまり見えなかった人種というのは、「義憤に燃えた匿名の人たち」ではないだろうか。

夏の暑い日、客がいないコンビニで、店員が悪ふざけでアイスのケースに入っていたところを偶然目撃してしまった。
見てみないフリをする人もいれば、不快感で店を飛び出す人もいるだろう。中には、バカだなぁ~、と思わず笑ってしまう人もいるのではなかろうか。

しかし、その場で激怒して猛抗議し本社に電話までかける人は、感覚的にはそれほど多くないように思う。
なぜなら、その場を抑えた写真でも撮っていない限り証拠もなく、味方も皆無だからだ。店員が否定すればそれで終わってしまう。振り上げた拳をそっと振り下ろすのは、ちょっとした敗北感すらある。

その点でインターネットという装置は「義憤に燃える匿名者」にとって大変有利なものだ。

糾弾するための紛れもない証拠がある
怒れる自分は大勢側の人間である
悪いのは絶対的に相手であり自分には一分の非もない
名前も顔も晒すこともなく思う存分相手を攻撃できる

という好条件がそろっているのだから。

「悪いやつを成敗したい、批判したい、正義を振りかざしたい」という欲望、間違っていることを糾弾したいという欲求は誰もが持つだろう。そして、一部の人はその欲求レベルがとても強く、犯した過ちの大小に関わらず、相手を可能な限り不幸のどん底に陥れたいという欲望を持っている。これは、分かっているのにバカなことをやってしまう人たちと同じく、一定数以上存在するのだ。残念ながら。

私は、ネットはすべての現実社会を拡大する機能がついた装置だと思う。だから「バカだけが目立った」のではなくて、今までもそういった「糾弾する世間」というのはあったのだけど、それが非常にうまく機能するようになった、ということではないだろうか。

だから「バカやっちゃう人たち」や子供には、そのような「世間」の存在を説き、「何だかわからないけど、ネットでやらかすととにかく恐ろしいことになる(でも良いことをすればその逆にもなるよ)」と教えておく必要があるのかもしれない。

会社や学校をクビになり、下手したら自殺まで追い込んでもなお、嬉々とした快感を覚える人がいる。これはもう仕方ないのだ。躊躇もなく人を殺す人がいるのと同様、世の中にはそういう類の人がいる。残念ながら。

では、誰もがこういった発信力を身につけた今後の社会は、一体どうなるだろう。あらゆることが規制され、ガチガチの生きにくい社会が出来上がるだろうか。

私は、結論からすると「慣れる」だろうと思う。
人間の「慣れ」耐性はなかなか恐ろしいものがある。飛行機だってネットだって、少し前ならとても信じられない代物なのに、我々はもうそれがなくては生活できない。

今までは「近所のバカ」だった人が、「ネットのバカ、世界に公開したバカ(褒め言葉)」になるだけで、なくなることはない。社会的な糾弾もそれなりに受けることだろう。しかしそれが当たり前になると、世間はあっという間に飽きて「またか。まぁそういう人もいるよね」程度の状況になるのではなかろうか。
だって、コンビニの冷蔵庫に入るくらい、別に大したことじゃないでしょ?

weblioのSEOが凄まじい件

少し前から、調べたい単語をGoogleで検索すると、ほぼweblioが1位で表示されるようになった。
ひと昔前は、goo辞書やYahoo辞書だった印象があったが。

そして今日、何となく調べた単語で驚異的な検索結果が表示された。

20130606

あくまで私の環境ながら、なんとトップ10のうち実に9つがweblioで埋め尽くされている。
なんという全盛期の小室ファミリー状態。

しかしよくよく見てみると、検索した単語とは無関係な内容も散見される。

結果のうちのひとつを見てみると、

20130606_2

このように、金融庁やらWikipediaの文章を引用して表示している。
すべてをDB化しているとは考えにくいので、おそらくAPIを利用し、検索ワードを元に、そこそこ権威のある文章を引っ張ってきているのだろう。

こうすれば、膨大な単語や文章を自らのコンテンツにし、キーワードにできる。
普通のサービスがこれをやったら完全にスパム扱いされそうだが、辞書の利用者からしてみれば、このような例文が表示されることは有用でもある。
さしものGoogle先生も、振り上げた拳で頭を掻くしかないのかもしれない。

これが彼らのSEO対策のすべてではないだろうが、辞書というコンテンツを逆手に取った、非常に巧妙な手法だなと感じた。

デマを信じさせ、上手に拡散させる方法

twitterやfacebook、いわゆる「ソーシャルメディア」の発達で、誰もが簡単に情報を発信できる時代となった。
とっておきのネタや、手に入れた特ダネを披露して、他人に承認されるのはとても気分がいい。

たとえそれに信ぴょう性がなかったり、仮にまったくのウソだったとしても、自分の承認欲求には代えられない。

そこで今日は、デマをうまく信じてもらうための方法をまとめてみた。

当然のごとく語る

最も簡単なのが、このまるで常識のように語る手口。
さも当たり前のごとく断言すれば、情報ソースを提供する必要もない。

受け取った側に「こんなことも知らないなんて恥ずかしい」と思わせたらもう勝ちである。

「○○が△△教の信者っていうのは、有名な話だからな」
「まぁXXが体に悪いのは、誰でも知ってると思うけど」

有名人の名前を出す

情報に信ぴょう性を持たせるために、有名人の名前を出すというのは最もポピュラーな方法だ。
この場合「その人がいかにも言いそうなこと」であると効果はさらに高まる。

「この間ドコモの部長が講演で言ってたけど、iPhoneは今年中に出るらしい」

最近では、twitterでRTさせるという手もある。名のある有名人がRTしたとなれば、その情報に箔が付くことはうけあいだ。
「福島小学生が原発放射線で死亡」 坂本龍一ツイッターでデマ「拡散」

別の情報を否定する

まず否定から入り、信ぴょう性を持たせるパターン。
否定される情報もデマで構わないため、かなり簡単に効果を最大化できる。

「○○が前科者だっていうのはデマ。実際はその友人の△△」

最初の情報をあえて大げさにし、信じやすくさせるという技術もある。

「○○病院が急患を30人診断拒否したってのはデマ。本当は5人」

混乱に乗じる

最近では、東日本大震災後によく見られた手法。
みなが正確な情報を求めている時に、それらしいことを発信すれば、信じてもらえる可能性が高くなる。

「イソジンを飲むと、放射能対策になる」
「総務省の幹部はもう全員九州に避難している」

いかがでしたか?
これらを駆使して、うまく承認欲求を満たしましょう。

ただ、ネットの世界は匿名だけど、本気で調べようと思えばできちゃうから、くれぐれも気をつけましょうね。