向上心がない人の存在を認めて暮らすべき理由

ユニクロ、「世界同一賃金」導入へ 優秀な人材確保狙う

日本には最低賃金制度があるため、一定以下の給与に下がることはないだろうし、グローバル化を見据えれば納得できる施策である。
そもそも、一企業の賃金形態に難癖をつけることはできないし、それ自体には何も思うところはない。

しかし、いただけないのは以下の発言だ。

「年収100万円も仕方ない」ユニクロ柳井会長に聞く

「年収100万円」は極端な例えだろうが、発言の要旨をまとめてしまえば、

「大したこともしていないのに、先進国に住んでいるというだけで安穏に暮らしている人は、これからどんどん貧しくなるよ」

ということだ。

日本は今後、柳井さんの言うように、ますます貧富の差が広がっていくだろう。
柳井さんはその原因をグローバル化に依拠しようとしている。富が世界規模で平準化されることで、頑張らないと後進国に住む人のようにどんどん貧しくなっていくよ、と。

交通網やインターネットがこれだけ発展した社会では、グローバル化は今までにないスピードで進んでいくだろう。
これは止めようがないし、止める必要もないけど、柳井さんクラスの人が「オレはそれを加速させる。あとは知ったこっちゃない」というのは、なかなかどうして過激すぎる。

個人的にはTPPにも概ね賛成だし、自由競争がないと経済は発展していかないと考えているけども、それはかなり長期的な、いわば自分が死んだ後の何百年も先を見据えたマクロな視点であって、急激にそれをやろうとすると社会に大きなひずみが生まれてしまう。

考えるまでもなく、1億円と100万円に別れたら、圧倒的に後者の数が多くなるはずだ。
一部の金持ちと、大多数の貧困層。

柳井さんは「頑張れば大丈夫だ」と言うが、世の中の大多数の人は向上心がない。これは認めなければならない。
食うに困らない程度に働き、あとは酒を飲んでグウタラしたいという、どうしたって頑張れない人が大多数なのである。

それを認めた上で、先人たちはこの社会を築いてきたのだ。
誰かが富を独占すれば、社会の基盤が崩れて、犯罪も増えるし戦争や内乱も起こる。
そうならないために、権力者や経済界が必死になって民衆を治めて、全員がある程度納得できる程度の富を得られる社会を作って、国が平和に回っていくように努力してきた結果が今の日本であり、一定以上の先進国の姿だろう。

それには、ある程度国の利益もやはり守っていかなければならない。
現代社会はまだまだ「国」がすべての基盤であり、しばらくは続くだろう。このベースが「企業」となる日もいつか来るかもしれないが、少なくとも今後100年で訪れるとは思えない。

そういったことを、柳井さんとほどの人が分かっていないわけがない。
だからこそこの発言は「(給料が安いのは)お前が頑張らないせいだ」という言い訳を伝家の宝刀的に自社社員に使いたいだけなのでは、と穿ってしまうのだ。

優秀な人は国籍を問わず活躍すべき、というのはまぶしすぎるほどの正論だけれども、だから貧富の差はどんどん広がっていい、というのはちょっと急進的すぎる。

日々を安寧に過ごせればそれ以上のことは望まない、しかしそれが崩れた時、大多数を占める一般大衆がどうなるか。
認めたくはないかもしれないけど、それは歴史が証明してきたことだし、いかにそれを抑えるのかが近代国家の常識だろうと思う。

エアロプレスは最終解か? 面倒くさがりのコーヒー好きが出した答え

何があってもどこにいても、365日必ず飲まなくてはいられないほどにはコーヒー好きである。
休日の朝、一人ガリガリと豆を挽くのは、まさに至福の時だ。

そして、最高のコーヒーの淹れ方はハンドドリップだと信じているが、いかんせん時間がかかる。豆を挽くところから始めると、1杯出来上がるのに10~15分は必要だろう。
生来の面倒くさがりある自分にとっては、このトレードオフは非常に重要な問題だ。

朝はやはり時間の余裕がないし、お湯の温度管理に失敗すると、時間がかかり過ぎてコーヒーが冷めてしまう。

これを解決する最適な手段はなんだろう。やはり、コーヒーメーカーで我慢するしかないのか。

そこで、登場したのが「エアロプレス」
これは簡単にいえば、空気圧の力でコーヒーの旨味を出す手法だ。あの小川珈琲が広めたと聞いたことがある。
エアロプレス コーヒーメーカー
エアロプレス コーヒーメーカー

エアロプレスの利点は、何と言っても時間短縮。10分以上かかるハンドドリップが、空気の力を借りる事で数分で完了するならば、これはコーヒー好きには大変な発明である。

以前から気になっていたし、思い切って購入して試してみたところ……

正直、最初はかなり難しい。これはハンドドリップ以上に技術が必要だ。

やり方の順序として、
1:(筒の中に)粉を入れる
2:ゆっくりとお湯を入れる
3:かき混ぜる
4:20~30秒かけて圧縮する

となるのだが、「4」に入るまでにある程度の時間がかかるため、最初の1/4程度はどうしても自然にドリップしてしまう。
それが原因なのか、出来上がったコーヒーは深みが足りない。

「4」の工程時に、圧縮棒をあえて少し戻して、そのまま数分放置するというやり方(その間はドリップは止まる)も試してみたが、結局味にそれほどの変わりはでなかった。
それに、結局時間がかかるのであれば、エアロプレスにする利点がなくなってしまう。

しばらく試行錯誤して挑戦したものの、結局、
 ・時間がある時はハンドドリップ
 ・ない時はコーヒーメーカー

という結果となってしまった。

ハンドドリップ>>>超えられない壁>>>エアロプレス>コーヒーメーカー

といったところだろうか。

ただ、私は濃いコーヒーが好きなので、逆にさっぱりしたものが好きな方にはいいのかもしれない。

しかし、まだ自宅でサイホンを使ったことはないし、フレンチプレスやパーコレーターも試していない。
うまいコーヒーと有限の時間とのトレードオフは、まだこの先も続きそうだ。

何だか中途半端な結果となってしまったが、エアロプレスを試してみようと思った方の参考になれば。
また、賢いエアロプレスの使い方をご存じの方がいれば、ぜひ教えて下さい。

AKB48とファンの関係に見る、新たなプラトニック・ラブと美のイデア

AKB48とファンの関係を揶揄する人は多いが、個人的にはとても高潔だと感じている。
突き詰めていけば行くほど、新世代のプラトニック・ラブ(=プラトン的な愛)を垣間見ずにはいられない。

AKB48には、有名な「恋愛禁止」のきまりがある。これは鉄の掟とも言われ、破ると丸坊主にされたり、解雇されることもあるほどだ。

そしてこれは、大きな矛盾を孕んでいる。
ファンはどんなにAKB48が好きでも、彼女たちと交際や結婚をすることは不可能なのだ。

彼らがお互いに供給しているのは、一方はファンとして金銭や時間を供給するという支援であり、一方はその支援を受け、スターとして日の当たる場所で存在するという状態である。
そこには、男女間の恋愛関係やセックスは介在できない。愛情の究極の形が交際や結婚、セックスではないという、現代の一般的な常識から見て真逆の関係性である。

ただこの関係は、10代や20代の健全な男女にとってはあまり健康的とはいえない。
その頃は大いに恋愛をすべきであるし、時に理解することが難しい、異性の考え方を知る絶好の機会である。そして、将来的なパートナーを見つけるという意味でも、貴重な時間だ。いわゆる性欲の強さだって、おそらく人生のうちで最大のピークである。

仏の道に入っているはずの寺の坊主でも、結婚しセックスをして、税金を納めずにベンツを乗り回すこのご時世、性的交友を完全に排除して生きていくのは、不可能であると言い切れよう。

では彼らはどうすべきなのか。
そこで登場するのが、プラトンである。

有名な「プラトニック・ラブ」。
これは一般的には、結婚するまで婚前交渉をしないという意味に捉えられているが、実際には「精神的な愛」の究極を説いたものである。
「外見に惹かれる愛よりも精神に惹かれる愛の方が優れている」ということが真の意味であり、更に優れているのは、「誰か一人を愛することではなく、愛するということ自体に価値を見出すこと」だと説き、それこそは「美のイデア」であると説いた。

そんなプラトン自身は、(当時としては珍しくないが)ガチのペドフィリア(小児性愛者、しかも男児)である。一部では、この「美のイデア」論は、彼の嗜好を正当化するための言い訳ではないかと批判されることもある。

それに比べて、AKB48ファンはどうだ。
彼らは愛することに価値を見出すどころか、あらゆる資産を擲ってまで相手を愛することができる。
自分たちの財産を費やし、肉体的な快楽を求めることを拒否し、ただただ頑なに推しメンを支援するその姿こそは、ある意味で、プラトンの理想を超えた、自己犠牲をも内包される、誠に称賛すべき愛を具現化しているといえるのではないだろうか。

だからこそ、彼女たちが掟を破ることは理想に対する「裏切り」であり、行き過ぎた愛情が行き場を失った際に多々発露する、恨みという感情に変化するのだろう。

その痛みはとてもわかる。しかし前述のように、現代社会においては、セックスを抜きにして生きていくことは不可能なのである。

きっとそこには恋愛やセックスなど存在しない。たとえAKB48が、AK-47よろしく、激しいピストン運動をしていたとしても、それはあくまで「イデアが創りだした虚像」であり、真の意味では存在しないのだという境地に達した者のみが、本当のファンといえるのではなかろうか。

まぁ、イデアって言いたかっただけなんだけど。

RSSは死なない、続いていく ただし細々と……

Google Readerが終わるという。これはかなりショックだ。
毎日どころか、一日に何度も利用しているサービスだから、なくなった後の生活が想像しがたい。

確かに、RSSはいわゆる「一般の人」が使うには敷居が高いだろう。

日本には、まとめサイトがある(ので、tumblrは革新を起こせない)

Google Readerが始まって8年。ここまで使わなかった人たちが、この先使うことはまずなさそうだ。

技術屋は特に、技術の進歩は無限に突き進むと思うフシがあるが、サービス単位に落ちると必ずしもそうではない。例えば、音楽ソフトのイコライザーはもっと細かく設定できるはずだが、そんなもの難しすぎて普通の人には使えない。
RSSは素晴らしく便利な技術だが、それをあえて封印することによる世界の描き方というものは、確かにある。

今回のGoogle Readerの終了は、インターネットがより一般的になったことの証左だろう。
Webの技術の進化も、ここらで一休みする段階に来たのかもしれない。

RSSは、Google+をはじめとしたソーシャル系のサービスに統合されるのでは、という意見もある。
しかしそれは的を外していると思う。たとえサービス提供者の思惑がそうだとしても、世界はそんなに画一的にならない。
知り合いばかりの生ぬるい環境が面白いか? 頭をガツンとやられるような、刺激的な情報はそこから得られるのか?

私のような「情報ジャンキー」に限らず、一度便利な体験をしてしまうとそこから戻ることは難しい。ほぼ不可能に近い。
例えば前述のイコライザーが音楽愛好家に利用されているように、RSSやその他有益な技術は、一部のジャンキーたちの手によって密かにもたくましく受け継がれていくはずだ。

実際、多くの企業や団体が(それが商業的な理由であれ)、RSSを継承しようとしているではないか。

Google Readerユーザー獲得に各社が名乗り ヤフーは「引っ越しツールを爆速準備中」

Google Readerの終了は確かに悲しい。
しかしこれは、インターネットがより普遍的になったという朗報と捉え、次のステージに進むのがポジティブな考え方ではないだろうか。

「ソーシャルゲーム」は、ケータイ課金が生んだビデオゲームの形

著名ブロガーさん(主にはてな界隈)たちの間で、ソーシャルゲームについて語るのが流行のようなので乗っかってみる。

「ソーシャルゲームへの批判」はむしろゲームの可能性を狭くしてないか?という懸念

ソーシャルゲームよりゲーセンのほうが「高コスト」問題

「ソーシャルゲームはゲームじゃない」という言い方があるが、ビデオゲームの変化、そしてソーシャルゲームの成功は、ほぼ100%、課金システムの変容によると思われる。

PingPongから始まったビデオゲームは、ゲームセンターになり、家庭用ゲームとなり、ネットワーク対応して、(日本では)ケータイ端末が主戦場となった。
ネット以前は、筐体かソフトという「パッケージ」でしか販売できなかったものが、理論上、追加コンテンツを無限に発行できるようになったのだ。
工場もいらなければ、デパートに買いに行く必要もない。もっと言えば、パッケージだったらリコールになるようなバグがあっても、バッチをあてればそれで済んでしまう。これは非常に大きな変化である。

そしてここで「ケータイ料金と同時に引き落とされる」という仕組みが開発される。
国民全員が持つ端末から、ほとんど何も意識することなくお金が動く。これは、貨幣の流通という面で革命的に素晴らしいシステムである。

かくしてゲームメーカーは、この完成された、素晴らしい仕組みを手に入れた。

この時点でビデオゲームは「どんなものが面白い(=売れる)か」ではなく、「この課金システムに合ったものはどんなものか」に最適化されることとなった。
数十億円をかけ、当たるも八卦の大作を作っていたのは今や昔、少ない制作費でどれだけ「スキマ時間」の金を搾り取れるかが重要な戦略になってきたのだ。

ここで「そんなもの、オレが好きだったゲームじゃない!」と言い出してもどうしようもない。人間は経済活動に勤しまなければならないし、お金が儲かるところに人が集まるのは必然だ。

そして、ハードの「過剰な」進化も要因のひとつかもしれない。
現在の最新家庭用ゲーム機の操作性についていける人がもはや少数、ごくごく少数であることは認めるべき事実だろう。
大多数が許容できる操作性の限界は、ゲームウォッチやファミコン、ケータイゲームレベルであり、何も考えずにすむ、スカッとするゲームを人々は好む。
むしろ、それ以上のものをゲームに求めていない。もう誰が何と言おうが、大多数がそうなので仕方がない。

なので「ソーシャルゲームはゲームじゃない」というのは多分違くて、近代の流通システムと経済活動に沿って正しく進化してきた結果が今の「ビデオゲーム」の形なのだと思う。

だからこそ、昔を知っているゲーマーほど「昔はこんなものタダだった」感が強いし、作り手の「払わせよう払わせよう」が透けて見えると、すごく嫌な気持ちになるのだろう。

そんな中、たとえ経営的に厳しい状況に追い込まれても、あくまで自分たちの哲学を貫き通している任天堂などは好意的に受け止められるわけだ。
それこそが会社の経営的な戦略かもしれないけれども。

個人的には、グリーもモバゲーも好きではないし、逆日歩が発生するくらい空売りしているけども、いくら「こんなものはゲームじゃない」と言ってみたところで、それはゲーセンのゲーマーがファミコンに対しても言っていたし、やっぱり経済的な成功に抗うことは中々難しいのでは、と思った次第。