子どもの貧困と子ども手当と生活保護

子どもの貧困率、日本ワースト9位 先進35カ国中で

この記事を見て「何をこんな先進国で」という人は、是非こちらの書を参照して欲しい。
身近でない人には想像もつかないが、今の日本で貧困にあえいでいる子どもは驚くほど多い。

その多くは母子家庭だ。
貧しさゆえに働きに出る母親たちは、世間一般並の生活をするための仕事量と、幼い子どもをきちんと育てる責任という重圧を一人で抱える。
そして少なからぬ母親が、オーバーワークに耐え切れず、体調を崩しさらに貧しくなっていく。

「女性の社会進出」という御旗の元、若き母親たちは「働くことを強い」られてもいる。貧しければとにかく働け、その場は作ってやるから、と。

もう一つの大きな問題は、「働けるのに働かない親の子ども」である。
残念ながら、子どもがいても、五体満足でも、働こうとしない親がいる。または働いたお金をすべて自分のため、多くはギャンブルなど、に使ってしまう親もいる。
そして、実際にはうつ病やある種の精神疾患に罹患しているが自己認識できず、「自分はただの怠け病だ」といって塞ぎこむ人がいる。こういった人達は自分が悪いと思い込んでいるから、生活保護に頼ることもできない。

そしてこの記事を見て「子ども手当はやっぱり必要だ」という人がいるが、これは的外れである。
自身の子どもを貧困にさらしている親にいくら金を与えても、残念ながら無駄なのだ。

お笑い芸人の生活保護問題に対する批判は「家族が儲けているのに……」だった。
これは「家族には扶養義務がある」という前提だろうが、この考え方を子どもにも押し付けるのは大変危険だ。
現実に、食うものも食えずにいる子どもがいても、「親が働かないから」の一言で済まされてしまうからである。

親類が資産家だろうが、親が怠け者だろうが、自分でお金を稼ぐことができない子どもには関係ない。
生活保護や援助は家族単位ではなく、個人単位で行われるべきではないだろうか。

「働かない親のもとに生まれた子が不運であった」とい考え方もあろうが、現代、特にこれだけ少子化が進む我が国において、将来の希望である子どもたちを社会全体で守る施策が必要ではないかと思う。

「死ぬ覚悟があるのなら……」という人へ

就活に失敗して死にたくなるくらい悩んだら、エジプトのダハブに行ってみるのもいいと思う。

「死にたい」という人に「死ぬ覚悟があるならなんだってできる」と返す人がいるが、これは根本的に間違っている。

死を選ぼうとする人の多くは、意を決してそれを選択するわけではない。
安いドラマみたいに、目をつぶってビルから飛び降りるわけではない。

あれこれ頑張って、生きてみようと試みて、苦しんで、泣いて、それでもなおどうすることもできないから死んでしまいたいと思うのだ。

「死にたくない」と思うことは生き物として最大の本能で、これがなかったら何も成り立たない。
その本能をも凌駕する死への渇望に、どんなお説教も一般論も効果を持つわけがない。

だからこそ「死にたい」という人にあれをしろ、これをしろというのは、本当にやめたほうが良い。
少なくとも、冒頭の「死ぬくらいなら……」は絶対に禁句だ。死ぬより生きた方がより良いことくらい、当人が一番良くわかってるんだから。

では何ができるのか。
人によって違うだろうが、そばにいてあげることしかないんじゃないだろうか。

できれば話を聞いてあげて、できれば、あなたがいなくなったら私はとても寂しいよ、と伝えてあげる事だと思う。
その人にとって一番大事な人がいなくなる悲しみを想像させ、それと同じ苦しみを、胸を引き裂かれるような苦しみを私は味わうのだと伝える事ができたら、もう少し生きてみようと思ってくれるんじゃないだろうか。

「顔が見える支援」を安易にやるべきでない理由

studygift関連の炎上は「Campfireなだけによく燃えましたね」などと言っていられないほど、中々どうしてすさまじかった。
女性はめちゃくちゃに責められ、男女関係モゴモゴ、ついにはリーダーの家入一真氏が謝罪するに至った。

ここまで随分かかったなという印象だけども、謝罪文の中になお、気になる点がある。

「顔の見える新しい支援の形を実現したい」。 ~中略~ 僕が実現したかったのはまさにここでした。従来の “どんな人にいくら渡るのか解りにくい寄付” では無く、 “この人に共感するから支援” を実現したかったのです。

この「顔が見える支援」はとても崇高な理想だが、同時にとても難しいものだ。

寄付や支援は、決して少なくない「貸し借り」の概念が発生する。もちろん、寄付したのだから貰った側がどう使おうが勝手なのだが、残念ながら支援側の「あれは自分の金」という感覚は消えない場合がある。

だからこそ「あしなが育英会」のように「具体的に誰」というのはわからない形態になっているのだし、臓器のドナーにしても匿名で行われているわけだ。

例えば、被支援者が将来的に大成功して支援者と再会したとする。

おそらく家入さんはこの「邂逅」を美しいものだと捉えているだろう。「あ、あなたはあの時の……」というような。もちろんその可能性もある。

けれど「あの時、お前を助けてやったのは俺だ。だから見返りをよこせ」となる可能性は本当にないだろうか。善意や期待は、それが裏切られた(と本人が感じた)時、凄まじい負の暴走を起こすことがある。身の危険さえ危ぶまれるほどの。

スタッフはそこまでリスクを受容した上で、サービスを設計したのだろうか。少なくとも、それを彼女に説明してやったのだろうか。

<理想>
・支援した側された側がともにハッピーな、透明な仕組みを作りたい。
<リスク>
・支援という形で何かしら恩を着せたい、弱みを握りたい、見返りを受けたいと思う人がいること。

今回のサービスはあまりにも性善説に頼りすぎてしまったのかな、という気がしてならない。

何か新しいサービスや企画を思いつくと「これは新しい! 他のどこもやっていない!」という、もう鬼の首を取ったような躁状態になることはよくある。
しかし「誰もやっていないこと」は、えてして「あえて誰もやらなかったこと」だったりする。やらないのは、やらないなりの理由がある。
ウェブサービスはスピードが命でそれこそが醍醐味でもあるが、今回の場合は少なくとも「2,3日で勢いで作っちゃいました。テヘ」で済まされるテーマではなかった。

今後は、例えば
・支援者側は顔を出さない
・寄付金を(一般的に「支援した」と言えるほどではない程度に)少額にする
・対象を分散する

くらいの対策は必要かもしれない。家入さんの理想とは離れてしまうかもしれないが。

「学費に困っている学生を助けたい」という思想はとても有意義なことであると思う。それに対して動き出したチームに非難だけを浴びせるのは建設的ではない。
だからこそ「誰も傷つかないこと」を最優先とした、慎重な仕組みを作りを期待します。

「一生懸命働く俺より貧しくいろ」問題について

お笑い芸人の河本さんの親族が、生活保護を不正に受給したという件が世間を賑わせている。
それが果たして不正だったのかどうかは知らないが、少なくとも、感情的な問題の範囲を出ないように思われる。

それにしても、どうしてこれほどまでに多くの人が「河本憎し」となったのだろうか。

ひとつの大きな理由は、日本の経済的な弱体化だろう。

生活保護は税金であり、それを不正に受給することは明確な犯罪である。しかし現状は、その犯罪に対してみなが異常とも言える監視の目を光らせている。

これは紛れもなく「頑張っている自分と同等の生活をする人間許すまじ」という感情であり、弱者が弱者を妬み、嫉む、完全な負の連鎖だ。

ある人が生活保護を受けていると聞いて「自分たちはせめて健康に働ける。もっといい生活になれるよう頑張ろう」と考えるのが健康的な社会だが、今は違う。「それは不正ではないか」と疑い、すきあらば糾弾しようとする。

しかしそれは個人を責めるべき話ではない。いくら一生懸命働いても生活保護程度の賃金しか得られず、将来に渡って明るい見通しすらない現実が重くのしかかっていることが大きい。社会を、国を、そして自分自身をより富めるものにしていこう、という発想になる余裕がないのだ。

そしてもうひとつの大きな理由は、生活保護への無理解だろう。

マスコミの偏向報道のお陰で多くの人が「不正に」受給しているかのような錯覚に陥るが、実際にはその割合は0.4~0.6%程度と言われ、たとえそれが氷山の一角であったとしても、ほとんどが不正だとは考えにくい。

それよりも、むしろ本当に受給すべき人たちができない問題のほうがはるかに根深い。
障害を抱える家族をもつ家庭、肉体的・精神的疾患を持つ人はもちろん、特に現在は母子家庭の貧困が非常に大きな問題となっている(こちらの書籍に詳しい)。

そしてその無理解を示す端緒な例は、日本最大のポータルサイト「ヤフーニュース」において(記事公開時点で)もっとも多くの「そう思う」を集めている以下のコメントだ。

生活保護の審査をもっと厳しろ。年金より生活保護のほうが裕福なんて矛盾している。今のままだと税金や年金なんて払いたくない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120525-00000022-dal-ent

年金制度と生活保護というまったく種類の異なる、ただ「お金がもらえる」という点しか共通しない福祉政策を比べ、生活保護を叩く。これはおそらく「年金は、たとえ少なくてもいつかはもらえる」からだろう。
破綻することが火を見るより明らかな年金制度は後回しで、目についた生活保護を叩く現状は、とても刹那的で貧しい。

「一生懸命働く俺より貧しくいろ」という要求を解決するためにはどうすべきだろうか。
それには「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と謳う憲法25条を改正して生活保護を廃止するか、その水準を引き下げるしかない。
そしてその動きはもう始まっている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120525-00000108-mai-pol

生活保護の金額が下がることで、日本経済はますます弱体化していくだろう。これはデフレとイコールだからだ。
先に上げた年金制度の他にも高齢者医療制度など、見直すべき福祉制度は他に無数にあるというのに。

もちろん、国の福祉政策はその時の財政状況に応じて変化すべきだ。しかし、それでも生活保護という制度を断ってはならない。

生活保護が打ち切られて餓死するような人が次々に現れることが、どれだけ恐ろしいか。
誰もが生きるのに必死だ。どうせ死ぬのなら、富める者から財産を奪おうとするだろう。日本がそんな社会になるかもしれないことに、想像が及ばないのだろうか。

怪物アプリ「LINE」は新しいコミュニケーションを創造したか

携帯用の無料通話、チャットサービスの「LINE」の勢いが止まらない。
ダウンロード数は2000万(国内800万)を超え、各通信会社の帯域は次々に陥落した。

そして周りでも、LINE利用者がどんどん増えている。
特にインターネット初級者、いわゆる「普通の人」に多く、他のアプリはなんだかよくわからないがLINEだけはとにかく使う、という人があふれ始めた。

今回はもはや「社会現象」と言っても過言ではないこの「LINE」人気の秘密を分析してみた。

無料通話

LINEはテキストメッセージだけではなく、音声通話も無料で利用できる。通話品質はお世辞にもいいものと言いがたいが、「無料」の力はやはり大きいだろう。
しかしそれだけでは、競合のSkypeなどに対して優位性がない。LINEの強みはここではなさそうだ。

「スタンプ」の存在

LINEには「スタンプ」という「絵」が数多く用意されており、これらは絵文字とも顔文字とも違う。

例えばこれや

 

 

 

 

 

 

 

これ。

 

 

 

 

 

 

これら一見珍奇なキャラクターたちの人気は絶大で、多くの人が好んで使う。若年層の利用画面を見ると、文字の代わりに彼らで埋め尽くされているほどだ。

LINE上で重要な会話がされることは少ない。言ってみれば「くだらない茶飲み話」をするために利用するのであって、その時に彼らは利用者の言葉を何よりも雄弁に代弁しているのだ。

そして、このデザイン性にも絶妙なものを感じる。
女子高生からオジサンまで、性別や年齢を問わず受け入れられるデザインというのは実は相当難しい。このデザインセンスは、もしかしたらLINE勝利の最大の要因かもしれない。

そもそもスマホ対応の常識は、小さなディスプレイにいかに効率良く情報をねじ込めるかであった。そのために画像はサムネイルになり、記事は「続きを読む」で折りたたまれ、コメントは別ページに遷移することとなったのだ。

しかしこの珍奇なキャラクターたちは我が物顔でディスプレイを占領する。

従来の常識に凝り固まっていては、こんなにでかい「絵」は企画段階でNGとなったはずだ。
これを「面白い。いける」と判断した上層部も大したものだと思う。

返事をしなくて良い

LINEが一時的な流行で終わらずに、今後長期的に利用されるであろうと考えられる理由がこれ。

メールは基本、返信をしなければという心理的な強制力が働く。それゆえに返信がないと途端に落ち着かなくなるものだ。

そしてSNSも、リアクションを要求される類のコミュニケーション・ツールだろう。日記や近況を書き込むのはそれを知らせたいのではなく、リアクションが欲しくて書きこむのだ。

SNSの利点はテキストベースで時間を超えられる(一週間前の出来事にリアクションができる)ことだったが、LINEはそこにもう一度時間の概念を持ち込んだ。

文字を電子化して届けるE-mailでもなく、掲示板に書きこんで公衆に晒すSNSでもなく、場所は違えどケータイを通じて同じ時間を共有し、ただダベり続ける「ゆるいつながり」を実現した。

携帯のアドレス帳は何よりも強固なつながりというエントリを書いたことがあるが、ここをうまく捉えたのも功を奏したのではないだろうか。

ここまで振り返ると、LINEがやっていることは懐かしのICQや、Microsoft、Yahoo、AOLのメッセンジャーのそれであり、それをモバイルに持ち込んだ、というだけの話だ。

しかしFacebookやGoogleもチャット機能を取り入れている中、単独アプリというディスアドバンテージを背負ってもなお快進撃を見せたのは、これら要素が神業的に組み合わさった結果だろう。
LINEは、携帯、チャット、スタンプで新しいコミュニケーションの形を作ったのかもしれない。

スマホ時代の到来と共に様々なアプリが今後も現れるだろうが、まず最初の「覇者」となったのはLINEだったと、後年振り返ることになるだろう。