日本人の、トヨタ問題に対する関心の薄さ

トヨタのリコール問題が話題にのぼっている。
ただ、私は日本人がこの問題に関してあまりに無関心すぎないかな、と感じる。

トヨタは名実ともに日本を代表する企業であり、その影響力は甚大だ。
「トヨタの社長」という個人は、コロコロ変わる「日本の首相」より重要な人物だと言ってもいいかもしれない。

確かに、トヨタ車には不具合があった。それが原因で亡くなった方もいる。
そして、当初はそれを認めずに内々で処理しようとしていたのも事実だろう。

しかし、それでも、トヨタ車のリコールは他の自動車会社に比べて圧倒的に少ない(むしろ、今までほとんどなかったからこそこれだけ話題になったのだけれども)。
それこそ、アメリカ車の安全性とは比べものにならない。

にもかかわらず、アメリカ議会はそのトヨタのトップを呼びつけ、公聴会で宣誓までさせて謝罪させた。

もちろんトヨタとしたら、これ以上のイメージの悪化を避けたいという経営的なジャッジも含まれているだろう。
しかし、日本人としては、その意味をもう少し重大に捉えるべきではないだろうか。

アメリカ車が日本で事故を起こしたとして、社長が謝りにくるだろうか。
シンドラーエレベーターの事故で、責任者が国会で謝罪しただろうか。

公聴会で証言したこの女性を責めるわけではないが「トヨタのレクサス(Lexus)を運転中に時速100マイル(約161キロ)で制御不能になり」「夫へ電話をかけたとき、「神の力が介在し」、車はすこしずつ減速して停止したという」というのは、パニックのあまりブレーキペダルとアクセルを誤ったという可能性は本当にないのだろうか。

ある調査では、今回の問題で日本のGDPが0.12%引き下げられる可能性があるという。

政府が必死になって行う経済対策で見込まれる効果が、GDPの0.4%。
これが、トヨタの特定の車のブレーキに不具合があるだけでその1/4に値するのだ。

GMのように、もし本当にトヨタが潰れるようなことがあったら、日本経済は混乱に陥るだろう。
失業者はあふれ、とんでもない不況が訪れるかもしれない。貧困が加速し、治安も悪化するかもしれない。
トヨタが、経済が社会にもたらす影響はそれだけ大きなものだ。

トヨタ車(≒日本車)のイメージが落ちて、得をするのは誰か。損をするのは誰か。

オリンピックで国民感情を高めるのはもちろん素晴らしい。浅田真央選手にも頑張って欲しい。
しかし、もう少しこの「事件」に関心を向けるすべきではないか。これでは、日本人が「経済オンチ」といわれてしまうのも、已む無しと思える。

それは「トヨタなら大丈夫だろう」という楽観視か、あるいは信頼なのかもしれない。
「アメリカなら仕方ない」という諦観であって欲しくはないと思う。

社会性とは、誰もが身につけなければいけないのか

国母選手、惜しかった。
ショーン・ホワイトが異次元だったとしても、その下くらいは狙えたはずだ。
しかし、最後に果敢にも大技にチャレンジしたのには、男気を感じた。純粋にカッコいいと思えた。

今回のオリンピックで彼を取り巻いた問題は今更説明する必要もないが、世間が彼に対して怒っているのは、服装の乱れというより記者会見での態度の方だろう。「反省してます」という言葉とは裏腹に、誰がどう見ても反省してるようには見えなかった。

とにかく皆、彼の社会性のなさが鼻につくのだと思われる。
確かに、国母選手はっきり言って生意気だ。相手が年上だろうがなんだろうが「お前黙ってろ」と言ってしまう。

しかし、それは本当に許されないことだろうか。
常識がないだけで、犯罪を犯したわけでもないのに、なぜあんなにも断罪されなければならないのか。

「彼は自由人ではなく、日本の代表だ」という意見がある。
しかし、そもそもスノーボードの選手が「国を背負って」いるわけではないのは、リンク先にある通り。

彼はスノーボードの世界トップレベルの選手で、乞われて大会に出場したにもかかわらず、シャツを出しただけで「税金を出してやってるのに何だ!」と国中から言われてしまった。
その状況で「なんだよ、そんなのどうでもいいだろ。俺は滑りにきたんだぞ」と思っても不思議はない。

だから服装の件で責任があるとしたら、事情を教えていなかった(いたとしても徹底できていなかった)協会の側だろう。
もし税金が惜しいなら、なおのこと大会中は応援すべきだろう。結果が出てから「あの時のあれはさ、ちょっとこうした方が良かったかもね」とでも言えばそれで十分ではないか。なぜ、やる前から足を引っ張るようなことをするのだろうか。

(そんなことはありえないけど)彼のせいで日本の印象が悪くなる、という人がいる。
スノーボード全体の印象も貶めるという人もいる。

しかし、一人の人間をみて全体を決めつけるというのは、どう考えてもみている側の人間の問題があるだろう。

もちろん、社会性は身につけた方がいいことは間違いない。その方が人に好かれるし、生きやすい。

しかし、己の実力だけで人生を切り開いている人に対して、アドバイスとしてではなく批判として「社会性を身につけなきゃ、きちんとしなきゃダメだ」と言える権利は、誰にもないんじゃないか。

日本人は、大して興味もないのにやたら介入したがる性質があるように思う。
今回のことだって、国母選手もスノーボードのハーフパイプも、オリンピックが終われば誰も覚えてもいないのだろう。

そうした「お節介」気質はいいところでもあるのだけど、負の方向に働くとこういう事態が起こってしまう。
なんかなぁ… と思った。

孫さんのRTとチェーンメールとソーシャルメディア

先日、ソフトバンクの孫さんがTwitter上でRTした発言。

https://twitter.com/whatwashappened/status/9181337894

最初、「これって、チェーンメールでは…… 孫さんやっちゃったかな」と思ったのだが(リンク先に新聞記事があるので、ガセネタではないらしい)、よく考えてみるとTwitterのRT自体がチェーンメール(チェーンつぶやき?)的要素がある。
Twitterの登場で、その概念自体も変わってくるのかもしれない、と思い今一度考えてみた。

まずRTとは、Twitter上で気に入った発言を、他の人に見せるために行う行為で「ReTweet」の略である。当初はユーザの中から自然発生的にはじまったものだが、今では公式にサポートされるようになった。

そして、チェーンメールとは何か。
Wikipediaこちらのサイトによると、人それぞれ解釈はあるものの、自ら「知人に転送して」という情報は、すべてチェーンメールとなる。
たしかにTwitterのRTに近い。

数日前、こんなことも起こった。
「恋人捜して」 ツイッターの捜索願で騒動 警察は困惑

ここに出てくる登場人物たちは、みな善人だ。全員が行方不明の彼を心配し、行動を起こした。
実際、富士の樹海(!)で見つかったそうで、本当に深刻な状況だったのだろう。

しかし結果的には、警察の通常業務をさまたげてしまうという迷惑行為に発展してしまった。
そしてこれこそが、チェーンメールの弊害である。

「あえて言うなら、誰が一番悪いでしょう?」
となったら、直接の原因を作った「電話をかけた人」になるかもしれない。
しかし、必死で知人を探そうとした当人やTwitterにRTを投げた人に影響されたとも言える。
この程度でパンクする警察の電話回線、という意見もひょっとしたらあるかもしれない。

「Twitterでつぶやくのと、実際に電話するのでは大違い」という意見もあろうが、どんなにネットが一般的になろうとも、猪突猛進で突き進んじゃう人は絶対いるし、この問答を散々突き詰めて、強制力はないもののルール化したのが、RFCの「ネチケット」だったはずだ。

私は、ソーシャルメディアが新しい「メディア」のひとつになる日が来ると思う。まだ相当遠いけど。

そして、その形態は日々進化している。
例えば、1:1だったメールに比べ、1:数十万にもなりうるTwitterではその分散効果はまさにねずみ算式だ。それこそがTwitterのもつ力でもある。
しかし裏を返せば、何も考えず気軽にRTすればするほど、その情報の信頼性・有用性は薄れていき、Twitter、ひいてはソーシャルメディア全体がただの「ウサン臭いもの」に成り下がる。

この孫さんのRTにより、チェーンつぶやきはある程度市民権を得るだろう。「何で悪いの?」という人がたくさん出てくると思う。それもそうだ。インターネットのプロ中のプロがやっているんだから。

しかしソーシャルメディアの力を高めるのであれば、やはり使う人たちの「自分たちは既にメディアの発信側になっている」という自覚が必要だと思う。Twitterの力を信じるならなおさらだ。

結論:15年前のネチケットは、やっぱ正しいんじゃね?

「○○ちゃんが病気で苦しんでます!RTしてください!」
「Twitterで救える命がある!RTをお願いします!」
このようなネタを新聞に載せようとしたら、記者はまず、その真偽を確かめるために取材をするだろう。

それができない我々一般人はどうすべきか。
インターネットは誰もが接触可能な空間だ。そこに情報を吐き出すというのはどういう行為かを、今一度見直す方がよさそうに思える。

ちなみに、私はリンク先の少女とは知り合いではないので寄付はしませんが、もちろんこの活動自体を否定するものではありません。

「恋人捜して」 ツイッターの捜索願で騒動 警察は困惑

日本には、まとめサイトがある(ので、tumblrは革新を起こせない)

先日、新しいエントリをUpしていないのに(正確には、してたんだけどそれとは関係ない)あるエントリのアクセスが急増した。
それは2009年の3月に書いたもので、なぜ今更?と思いアクセス解析を調べてみると、「駄文にゅうす」さんというまとめサイトに掲載していただいたからだった。

まとめサイトというのは横のつながりが強い。
翌日、今度は2chのまとめサイトで有名な「アルファルファモザイク」さんに載せてもらい、更にアクセスが伸びた。

次の日には落ち着いたが、再度「かーずSP」さん、及び「ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS」さんに取り上げられ、遂にはまとめサイトの老舗「まなめハウス」さんに掲載いただいたことで、普段ほんの少ししかないアクセスが爆発的に増えた。

20100109_1

私は、このような歴史のあるサイトに紹介いただけたことに喜びながら、あることに気がついた。
これってtumblrだよなと。

実はこの少し前「ネタフルバード」さんにも(別のエントリだが)クリップしてもらっていた。12/27付近がそれだ。
語弊を恐れずにいえば、tumblrとしてはおそらく最大級の影響力を持つブログに取り上げられても、この程度の増え方だった(それでも普段の倍だけど。もちろん、ネタフルさん本体にリンクいただいたらこんなものじゃすまない)。

単純に、まとめサイトにはその10倍程度の影響力があるということだ。

アフィリエイトなど、管理人によって目的はさまざまだろうが、まとめサイトを運用していくのは本当に大変なはずだ。
今まで星の数ほどの人間がこれにチャレンジし、散っていった。

確かにtumblrは便利なのだけど、面白くて新しい情報を常に追い続けるというのは、相当の労力が必要だ。
自分が面白いと感じた記事に反応がなかったときの虚脱感と戦い、その逆に無上の喜びを覚える。それを毎日続けていくのだから。

すでに多くの経験と実績を持っているこのようなまとめサイトがある以上、日本においてtumblrがその壁を越えていくのは難しいのではないだろうか。
少なくとも、まとめサイトの管理人たちは「RSS」という技術には今のところ圧勝している。多くの人は、自分の好きなサイトをRSSに登録するよりも、信頼する管理人のまとめサイトを「お気に入り」にいれているのだ。

今までの自分の経験からだと、はてぶ、Newsing、Buzzurlあたりで取り上げられることから火がつき、次にまとめサイトへという流れが多かった。その頃からその威力は薄々感じていたのだが、今回改めてエントリにしてみた。

個人的にはあまりまとめサイトを利用しないのだけど、技術者だけではなく、こういった「サーファー」たちが日本のWebを支えてきたのは事実であり、Web文化の大きなひとつとして今もなお厳然と鎮座していることを改めて感じた出来事だった。

この記事も、まとめサイトさんに取り上げてもらえることを祈りつつペンを置く(汗

ソーシャルメディアは「数の原理」に帰結する

「ソーシャルメディア」という言葉が登場して、もう何年になるだろうか。
未知なる萌芽を感じた人は多かったはずだし、今なおその理想を追い続けている人も大勢いる。
今エントリでは、その「ソーシャルメディア」および「ソーシャルグラフ」に対して、現在自分が考えていることを書こうと思う。

というのも、当初考えていたソーシャルメディアの理想型が、自分の中で徐々に変わってきつつあるからだ。

言葉の定義があまりに広すぎるが、ソーシャルメディアとは一言で言えば「従来のマス型ではない(身近な人の)口コミなどによって伝播する情報伝達の仕組み、または情報そのもの」と、私は解釈している。

そしてそのソーシャルメディアの考えのひとつに「ある特定の少数が発する情報より、大多数の人間が発するそれは正確性で上回る」というものがあると思う。
プロの凄腕ライター一人が絶賛するお店より、100人中100人がおいしいと言っている店のほうが優れているはず、という考え方だ。

しかし、少なくとも現時点ではこの原則がうまく機能していないことが多い。
真偽の分からない、適当に書いた情報、誰かを陥れるためだけに作られたもの… ネット上には残念ながらゴミも多い。
Amazonや価格.comで評判が高かったから購入したが、意外と不満が残ったという経験は結構あるはずだ。

そこで飛び出した概念が「友達フィルタ」及び「ソーシャルグラフ」である。
素性の知らない人ではなく知人が勧めているのであれば、おススメの信頼性も増すという考え方だ。

Facebookが導入し、広告を革命的に変えるといわれた「Social Ads」は、その副次物の代表格だ。
結局プライバシーの問題からすぐに中止の憂き目を見たが、改良すればソーシャルメディアの中心的な勢力として君臨するだろうと思う、がそれはまた別途。

しかしこの「友達フィルタ」を活用するためには、Web上に信用できる人間関係を保持する必要が出てくる。
リアルの知り合いを引きずり込むか、Web上でそれを構築するか。

それがtwitterやFacebook、friendfeed、またはmixiなのかはどうでもいいのだが、いわゆる「普通の人」にとってこれは中々障壁が高いと思う。それができるのはごく一部で、その他大勢はそんなにどっぷりWebに浸かっていられない。

ある商品に対する友達の評価を聞きたければ直接電話することだってできるし、会ってお茶する間に聞くこともできる。
「僕はもうテレビなんて見ない」という人がいるが、それと同じように「ネットなんてたまにしかやらない」という人がほとんどだということを忘れてはいけない。

ソーシャルグラフの考え方は非常に優れたものだが、その恩恵を受けるためには相応の労力がどうしても必要になる。

Web上でより詳しく調べる人、Web上に友達が多い人、Webを普段から頻繁に利用する人……
その格差が広がれば広がるほど、ソーシャルグラフが織りなすソーシャルメディアは、一部の人のための一部のものでしかなくなっていく。

となると、それは結局インターネットのヘビーユーザのみが使用する特異な世界の域を出ない。広義の「ソーシャル」ではなく、少なくとも「メディア」でも何でもない。

という考えを経て、私は「ソーシャルグラフ」を利用したソーシャルメディアは、少なくとも今後しばらくは主流になりえないと結論付けた。
すべての人がWeb上でソーシャルグラフを作っていける、という考え方に私は否定的である。

ではどうなるのか。
結局、物量がすべてを駆逐するのではないかと考える。
ここでエントリの最初に戻るわけだが「ある特定の少数が発する情報より、大多数の人間が発するそれは情報の正確性を塗り替える」ということに帰結するように思う。

ソーシャルメディアがその機能を果たすためには、大多数の人がその輪の中に入ることが大前提となる。
その上では、ソーシャルグラフなどの「余計な」障壁はなるべく取り除き、気軽に参加・離脱できるメディアの有体として存在しなければならない。それこそ、テレビをつけるほど簡単に。
おいしいお店を知りたいだけなのに「まずお前の友達を10人連れて来い」というのはあまりにも一見さんお断りすぎだろうと。

そうなってはじめて、テレビ、雑誌、ラジオ、そしてWebの中から、利用者はもっとも都合のよい媒体を選んでいくはずだ。

たとえばレピュテーションのシステムでも、古くから行われているレビュー自体に「参考になった/ならない」をつけるなど、その正確性を上げていく試みはもっと色々あっていい。
Amazonの「10人中○人」では信頼性が低いかもしれないが、Yahoo! ニュースのコメント欄のように何万もの評価がつくことにより、情報はより平準化されていくはずだ。
ソーシャルメディアが生き残るためには、物量を多く取り込むことこそがまずすべきことなのではないか。

Web上にソーシャルグラフを構築することは難しくても、ソーシャルメディアをまだうまく使っていない人を取り込むことは可能だ。使いこなしていない人がほとんどのはずだから。

そんなことを思った2010年元旦。
今年もよろしくお願いいたします。