[読書]イギリス型<豊かさ>の真実 林信吾

「イギリスは(基本)医療費が無料である」という事実から始まり、その内実について、実際に英国に住んでいた著者が語った著書。
本の帯には「年収が低くても安心して暮らせる「福祉国家」の実情」という大々的な謳い文句がある。

その財源は主に、17.5%という高い水準の消費税からである。
イギリス国民、国家の考え方として根底にあるのは、アメリカのそれのような過度の個人主義ではなく、社会全体が弱者を守っていくというものなのだそうだ。

しかし、その17.5%というのも、食品や日用品には関税されないそうだ。よく消費税増税の言い分として「欧米では○○%もある」という言い草があるが、その代わりにこのような事実があることも良く知っておいたほうがいいだろう。

そして、無料という医療費にも様々な問題点がある。
無料であるゆえに市民が殺到するため、あまりに軽い症状の際は病院にはかかれないというのだ。その場合、随分前から予約する必要があるという。
「早期発見早期治療」という、我々日本人の常識は、イギリスでは通用しないのだろうか。

その他にも、著者の経験や歴史から、このイギリス型福祉社会の実情が分析されていく。
有益な点と問題点、それぞれ包み隠さず表現しているのには好感が持てた。

しかし全体の感想を言えば、著者は結局この「イギリス型」をよしと思っているのか、思っていないのか、よく分からない。
最後まで読むと、どうやら「よし」のようなのだが、途中途中で論点がずれていくので、結局どちらの立場に立っているのか非常に分かりにくい。
このような書き方にするのであれば、中立の立場で記述すべきで、その曖昧な態度が内容の理解を妨げているように感じた。

しかし、タイトルどおりの知識を身に着ける「初級編」という意味では、読んでみてもいいかもしれない。

Google Waveがエンジニアに与えた絶望

Google Waveが話題だ。
何でもまだ20%程度の開発状況で、これから世界中のエンジニアが参加して、どんどん姿を変えていくことをGoogle側は望んでいるらしい。

なので、このGoogle Waveというものがどれほどすごいのか、Webに革命をもたらすほどの「何か」なのかは分からない。

私はWeb業界で働いているので、周囲にエンジニアが多い。
彼らの多くは、当然かもしれないが「何かを作る」ことが好きだ。日々の仕事に追われながらも、心のどこかで「いつかみんながあっと言うもの」「社会を変えるような便利な(楽しい)何か」を作りたいと考えている。

そうして今日もPCに向かい、自分が信じる何かを作ろうとする。
しかし、日々の雑務、部下の管理、クライアントの無茶な要求、経営層の無理解… 様々な理由によって足止めされ、思うように進められない。そうこうしているうちに時は流れ、今回のGoogle Waveのような大きな衝撃が届く。

彼らは同じエンジニアとして「すごい」と思いながらも、「結局自分たちは何をやっているのか」という絶望感に包まれている。私自身、および私の周りだけの話かもしれないけれど。

昔から、Webの世界ではアメリカは日本の2~3年先を走っている、と言われているのだから当然といえば当然なのだろうが、それでも日本発のサービスが世界をうならせることもあるようになって、かすかながらも可能性を感じていただけに、大きな衝撃だったのだろう。

「メールというものを一から考え直す」という発想自体がそう出てくるものではないし、それ自体がそのまま「差」なのかもしれない。
少なくとも、そんな根本的かつ革命的なことを考えて実行に移し、いざ本当に作ってしまうというのは、もはや世界中でGoogleにしかできないのではないかと思う。

「いくらがんばっても、結局Googleには勝てないのか…」
そう思ったエンジニアの方も、少なくないのではないだろうか。

ネットにおける有料サービスの境界線

はてなが、はてなブックマークとうごめもはてなで有料サービスを導入した。
色々意見はあるようだけど、ちょうどいい機会なので、自分のためにもネットにおける有料サービスの種類をまとめてみた。

1:サービス利用料

サイト自体、もしくは特定の機能を利用するために課金するタイプ。
前者では、大きな力や確実な顧客を持っているところで有効。

例:ヤフーオークション、mixiプレミアムなど

2:通常機能の強化版

今あるものより明確に優れているもの。数字として分かりやすいことが多い。

例:Amazonのお急ぎ便、ストレージサービス系の容量増加など

3:付加機能

今ある機能に付け足す機能。現在あるものに比べて課金に値する(と運営側が判断している)もの。

例:はてなブックマークプラス、うごめもはてなプラスなど

4:デジタルアイテムの販売

アバター、ゲーム内アイテムなど。

こんなところかな。
今回はてなは「3」の方法で課金サービスを開始したわけだが、難しいのは、人によってはこれが「機能制限」と感じられることだろう(その意味では「2」もそうなのだけど、これはネット上の課金の常識として定着した気がする。2GBまでは無料、など)。
その境界線に明確なものなどないから、みんな試行錯誤しているんだと思う。

そもそもネットのサービスは、運営費以上の資金を稼ぐ、という視点で見ると広告だけで成り立つのは本当にごく一部。
他の産業を見ても、それができているのはテレビやラジオくらいで、しかも強大な力を持つ民法放送局だけだ。

そのほかは、利用そのものにお金がかかる。
例えば、新聞も雑誌も購入しなければならないし、多くの人が利用する電車もバスも「広告」だけでは成り立っていない。当たり前のことすぎて、疑問にも思わないけれど。

そうでなければLinkedInのように、質の高いユーザを持ち続けて、それを利用したい企業側に売り込む、という形しかない。

ルパード・マードック氏のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)も、一時は無料化の動きがあったものの、結局コンテンツの有料化に舵をきるようだ。

あの「メディア王」でさえ、ネットで収益をあげるのに最適な方法が何なのか、迷っているのだ。

これからはおそらく、色々なものが有料化されていくのだろう。
「ネットはタダ」が当たり前の時代は、そのうち終わる。皮肉にも、ネットが生活にとってなくてはならないものになればなるほど、それが加速するように思う。

臓器移植改正案と脳死

遅ればせながら、5/17にフジテレビ系列の「サキヨミ」という番組の「脳死」をテーマとした特集は、非常に興味深いものだった。

登場したのは、海外で心臓移植を行うために1億円以上の寄付金を集め、無事成功して健康を取り戻した女の子。
そして、1歳で「脳死」と判定されたにもかかわらずその後8年間、動くことはできないが体はきちんと成長している男の子。

日本における「脳死」の基準は、「大脳、小脳、脳幹を含めた脳のすべての機能が、回復不可能な状態になること」だという。
しかし、登場した専門家(名前失念)の話によると、日本における脳死、移植の基準は「脳死状態になると、1週間以内に必ず死に至る」と考えられていた1980年代から変わっておらず、最近では「脳死状態になっても、20%の人が一ヶ月以上生き延びる」という報告が厚労省から出されたという(ただしこの「脳死」の基準に関しては、個人的に調べた結果では現在のアメリカと同じものを採用しており、安易に「古い基準」だと否定できるものではないと考えられる)。

その上で、今回提案されようとしている臓器移植改正案は、
0012

注目されているのは、主にA案とD案だ。
違いは、A案が「脳死は死である」としている点と、本人と家族の意思さえあれば提供者になれるという点。いわばA案がもっとも革新的だということだ。

ここで、最初の二人に戻ってみよう。
心臓を移植をしたことで救えた命。一方で、その命を救った提供者(故人)と同じだとされながら、8年間生き続ける命。
A案は、後者の少年を「法的には死んでいる」と規定することになる。

出演していた勝間和代氏、竹田圭吾氏などの出演者の方たちは苦渋の決断としながらも、家族や本人に「選択権」があるA案を推奨していた。
臓器移植患者団体連絡会、日本移植学会なども「脳死を人の死としない」D案では、現状を変えることはできない、という理由で強く反対しているという。

しかしこれは裏を返せば「『脳死を人の死』と法律で決めてしまえば、親や家族が煩悶することがなくなる」ということでもあり、医学的に何かが進歩したわけではない。家族の脳裏から「昔の法律では「死」ではなかった」という思いは消えないかもしれない。

またそのA案の改訂版であるというD案は、本人の同意が不要であるため「親が子どもの死を決めていいのか」という、感情論ではなく倫理的な問題を秘めている。
本人は生きたいと望んでいても、家族と第三者機関が認めればそれが「死」となるのだ。

子どもが自分で意思表示できない、しかしもう脳は動かない(可能性が高い)、一週間以内に亡くなる可能性が80%ほどである。
その条件の下、本当に親であれば自らの子どもが「死んでいるかどうか」を決める権利があるだろうか。親が「死んでいる」と言えば、本人の意思とは無関係に、臓器を摘出されることをよしとするのか。

そして、竹田氏が番組の中で言っていたように「あなたの子はもう死んでいるのだから、臓器を提供しなさいよ」という社会の無言のプレッシャーという問題もあるだろう。

私のネット上での知り合い(のため、以下の内容の真偽は保障できませんが)に脳の研究をしていた方がいるが、その方は「病院はそもそも外科が力を持っている。臓器の移植部分に力とお金が注がれ、脳の研究費は年々削られていく。脳はまだまだ分からない事だらけだというのに」と嘆いていた。

いつの日か、臓器移植をしなくてもよいほどに医学が進歩するかもしれないが、少なくとも現在は、臓器移植でしか助からない子どもがいる。

何度も、頭の中で反芻するように考えてみるのだけど、答えが出てこない。
自分がその立場に置かれたらどうするのか。真剣に考えて、自分なりの結論を持たなくてはならないと思うのだけれど。

みんな、他人にそんなに興味ない

人間関係で悩まない人はまずいないと思う。

そしてこのやっかいなものをこじらせて、うつ病や重度の精神的ダメージを受けてしまう人も多い。
一度罹ると元に戻すのが難しい場合もあり、自分という個人の内面ではなく「人間関係」という外部要因で、人生が時に全く異なった方向に行くというのは、非常にもったいないというか、誰もが十分気をつけるべきことなのではないかと思う。

私自身は、運がよかったのか、現時点までそのような精神疾患を患ったことはない。
ただ、おそらく人より他人の顔色が気になる性格であり、身近なところで言えば、例えばメッセンジャーやメールの返信がなかなか来ないとか、全然誘われなくなったとか、誘っても断られるとかでいちいち「何か悪いことしたっけな」とか「嫌われちゃったかな」などと思ってしまうことがあった。

人間、マイナスの感情をもたれるのは嫌なものだ。
しかし実際は「嫌われた」わけではなく「興味がない」だけなのだ、と思うようにすると結構楽になった。マイナスではなく、かといってプラスでもなく、フラットなのだ。

自分に照らしてみても、嫌われたから無視する、ということはまずない。むしろ嫌いな人のほうが丁重に対処するはずだ。
それに、そんな細かいことであれば自分も結構やっている。人間、自分がやられた「嫌なこと」はよく覚えているが、他人にやった「嫌なこと」はすぐ忘れようとするのだ。

当然、こんなことで「うつ病が治る」なんてことはないだろう。
私は以前、境界性人格障害の人が身近にいたことがあったのだが、どんなに正論をぶつけてもよくなることはないし、むしろ正論がマイナスに作用することも多々あった(まぁそれは、人の性格が中々変わらないのと同じだと思うけど)。
そういう方は、やはり自分にあった病院なり、プロの先生を見つけることが最善かなと思う。

あくまで心身ともに健康だが、ちょっと人間関係に疲れ気味で、人の顔色が気になる、自分は他人に嫌われているんじゃないか、と思っちゃう人は「みんな、そんなに自分に興味ないだけ」と思えば楽になることもあるかもしれないよ、ということでした。

※内容はあくまで個人的な意見です。私は精神病やその他の疾患の専門家ではありません。