[読書]生きながら火に焼かれて スアド(訳:松本百合子)

愛する男性と婚前交渉をしたという理由で、ガソリンを頭からかけられ焼き殺されかけるという経験を記した書。2003年にフランスで刊行され、ベストセラーとなった。

著者が住むシスヨルダンは、国全体に警察の手が回らないこともあり、そのような「名誉の殺人」が当然の風習として今も残っている。
女性は婚前交渉はおろか、男性との会話や目を合わせることすら許されていない。それどころか、女性は男性の完全なる支配下にあり、男の赤ん坊を産むこと以外「無価値」とされ、毎日鞭で打たれて奴隷のように働く。勝手に家の外に出ることすらかなわない。このような地域が、世界にはまだあるのだ。

地域社会は「建前」を何よりも重んじ、女性のそのような行為は家族にとって最大の屈辱であると考えるのだ。だからこそ「名誉の殺人」はその行為者が褒め称えられることすらあれ、被害者に同情する人などいない。
この違いはまさに圧倒的だ。ちょっと想像すらできない世界である。

著者はこの地域の様子、価値観、日々の生活を克明に描いている。衝撃的な事実は数多いが、そのひとつに、著者の母親が出産をしてその赤ん坊が女の子だと分かった瞬間殺害する、というものがある。兄弟は元々女性が多く、これ以上は必要ないと考えたからだろうと言われる。著者は、複数回そのような光景を見たと伝える。そして、次の日からは何事もなかったかのように日々が始まるというのだ。
文体で見るだけでも痛みに襲われる。

そして、著者は結婚の約束をした愛する人の子どもを、半ば強引な行為によって身ごもってしまう。それ自体、本人は悪いことだとは分かっていたが、すぐに結婚さえすれば何とかなるだろうと考える。

しかし、男性は裏切った。著者は絶望の闇に落ちる。周囲に悟られにうちに堕胎しようと、自らのお腹を角に強くぶつける描写などは、あまりにも辛すぎる。

そして、その日がくる。著者は姉の夫によって髪の毛に火をつけられる。
何とか生き延びたものの、やけどによってあごと胸が癒着してしまうほどの大やけどを負う…

その後、身ごもった子どもの出産、国外脱出、新たな相手との結婚と出産、と彼女の半生が綴られる。そのあまりにも壮絶な人生に、本当に言葉も出ないほど圧倒される。

世界にはさまざまな文化があり、特に近代では、それらは尊重すべきものだと思うが、やはりこれは悪習だといわざるを得ない。男女が平等である云々ということではなく、最大限に尊重されるべきは「生命」であり、何物をもそれより上位にくるべきではないと思う。
日本でも「名誉」や「尊厳」が重要視されていた時代が、そう古くない過去にあった。今でもそれを重要視している人は多いとは思うが、一般的には「名誉を汚したので死んで詫びる」という風潮はなくなっているだろう。日本は変わったのだ。

著者が育ったこの地方だって変われるのではないか。変わって欲しい。価値観を押し付けるわけではなく、そう思えて仕方ない。

この本唯一の救いは、エンディングだ。とてもすばらしい(著者は存命なので、あくまでこの本での)ラストには、胸が熱くなる。
本書は、現代を生きるすべての人にとって読む価値のある、一度は読むべき書だろう。

メディアは「新型インフルエンザ感染者第一号」を待っている

新型インフルエンザの報道は、やれどこの誰に「感染の疑いがある」とか、メキシコでは何人亡くなったということばかりで、無為に不安を煽っているように見受けられる。
「パンデミック」というある種のバズワードが一人歩きし、場合によってはペストやスペイン風邪のように、世界中の何割もの人が死に至るかのように一般市民をおびえさせているような気がしてならない。

ここはいったん落ち着いて、現状を再確認してみたい(エントリ執筆時点)。

    ・メキシコ国内での感染は落ち着き始めている
    ・ウィルスはあくまで弱毒性で、完全に治癒した人もいる
    ・メキシコ以外で亡くなった方はアメリカ人に一人。ただし、元々持病を持っていた
    ・今回のウィルスの分類である「H1N1」は、過去のスペイン風邪、香港風邪と同じ(分類が同じでも対処法は同じではない)
    ・現時点では弱毒性でも、強毒性へ変異することがある
    ・「パンデミック」は人から人へ感染することが、世界の一定範囲で確認された場合に宣言されるもので、ウィルスの強さや致死率などとは無関係
    ・新型でない(季節性の)インフルエンザが5月になってもいまだに収束しておらず、患者数は数千人規模ではるかに多い

という感じで、もちろん注意すべき点はたくさんあるものの、世界人口の何%が死んでしまう、というようなことは考えにくい。
むしろ、秋に訪れる可能性があるといわれる「強毒性への変化」と、それに対するワクチンの対応状況などを積極的に報道すべきではないのだろうか。

こういうと語弊があるだろうが、メディアはある意味で日本ではじめて感染する人を待っている節がある。
強きを挫き、体制の闇を暴くのが彼らの仕事のはずだが、実際のところわが国のメディアがそうなっていないことは、もう認めざるを得ない。視聴率や発行部数が何より大事なメディアにとって「日本初の新型インフルエンザの感染者」というのはセンセーショナルな衝撃をもってトップニュースになるはずだからだ。

「メディアは国民を映す鏡」というけれど、過剰に反応すればするほど、おかしな方向にいくような気がしてならない。
少なくとも、海外から帰ってきた「疑いがある」程度の人をいちいち数え上げて報道しているのは、日本くらいのものではないだろうか。

慎重なのはいいとしても、インフルエンザで高熱にうなされている子どもや若者に対し「良かった。新型じゃなかった」と胸をなでおろす、みたいなのはちょっとおかしいだろう。

[映画]フィクサー トニー・ギルロイ監督

評点:35点(100点満点中)

ジョージ・クルーニー演じる主人公は、世界をまたにかける巨大弁護士事務所の「フィクサー(もみ消し屋)」。クライアントの指示とあれば、交通事故でさえもみ消す。

そんな折、巨額の賠償金がかかった案件を担当していた、彼の親友でもある有能な弁護士が突如、原告側の味方につこうとする。
それは、彼が被告側の大企業に非があることが分かってしまったからだった。

しかし、クライアントは大企業。主人公はそんな親友を止めようと動き出すが…

陰影をうまく活用し、重厚感漂う作品。早口でまくし立てるしゃべり方など、ジョージ・クルーニーは敏腕弁護士をうまく演じていた。

しかし、残念ながら作品としては薄っぺらい。主人公の個性(ギャンブル好きなところもまったくの無意味)、登場人物の動機、ストーリー展開…
井筒監督が映画の批評をしていたTV番組で「これなら日本の2時間ドラマの方が面白い」とよく言っていたが、正にそんな感じ。画のカット割りも単調で動きがなく、テンポも良いとはいえなかった。シナリオ、監督、編集さえ違っていれば(ほとんどか…)かなり違った作品になっていたことだろう。

役者の芝居が良かっただけに残念。

[映画]いのちの食べかた ニコラウス・ゲイハルター監督

評点:63点(100点満点中)

食の現場とそこで働く人々を淡々と映し出した、ドキュメンタリー映画。台詞は一切なし。

野菜や果物を摘み取る姿はもちろん、豚や牛を屠殺していく様もはっきりと撮影されている。
死の恐怖におびえて暴れる牛。しかしオートメーションの巨大な機械に乗せられ、流れ作業の中、空気銃で頭を打ち抜かれ一瞬で屠殺される。体は半分に裂かれ、内臓を丁寧に取り出されて次第に我々が見慣れている肉製品の形になっていく。
非常に淡々と作業をこなす人たちの姿が、その様子をより際立たせていた。

ややもすると目を背けたくなるような描写だが、画面は落ち着いていて、美しくすらもある。おそらくいくつかの撮影技術を多用しているのだろう。そのあたりは監督や編集の手腕だと思う。

食肉の加工や、食物の生産現場に直接居合わせない私を含めた多くの人々は、スーパーでパックに入った肉片しか見ることがない。テレビでは、油の滴る高級な肉を映し出しては「おいしそう~」とタレントたちが笑っている。

それはそれでいいと思う。しかし、我々が食べているのは紛れもなく牛や豚という動物だ。それは、紛れもない命の塊だ。確かに、我々に命を与えるために生まれてきた命ではあるけれど。

そこには、毎日動物の血にまみれながら働く人々がいる。そして、いつか我々の命をつなぐために今生きている命がある。ついぞ忘れがちで、あえて目を背けようとしている真実を、改めてみてみようという勇気がある方は、ぜひご覧になることをオススメする。

月並みだが、これを観た後では肉の一枚も無駄にしてはいけないのだと、改めて認識できる。子どもに見せるべき映画だと思う。

[読書]子どもの貧困 阿部彩

サブタイトルともなっている「日本の不公平を考える」というのが、著者が主張したかったすべてを物語っている。

親もなくスラム街で暮らすアフリカの子どもたち、富める人々を横目に道をひとつ隔てた裏路地で悪臭にまみれて暮らす中国の貧困層、ストリートチルドレン問題を抱えるアジアの諸国。

それら途上国に比べ、日本の子どもは恵まれているとされてきた。日本は豊かで、生きていくための最低限の権利が保障されていると認識されている。

しかし、そうではなかった。本書を読むと、日本の「貧困層」と言われる人々がどのような生活を強いられているのかが、克明に伝わってくる。

膨大なデータを元に、日本の貧困が看過ならざる状態にまで陥っていることを指摘する著者。特に、母子家庭のそれは本当に深刻だ。貧しいために働きに出る母親、必然的に取り残される子どもたち。
多くの母親がオーバーワークに耐え切れず体調を崩し、さらに貧しくなっていく。日本では「女性の社会進出」という御旗の元、とにかく「働くこと」が奨励される。しかし著者に言わせれば、それは「働くことを強いている」ことにもなっているという。貧しければとにかく働け、その場は作ってやるから、と。

生活保護に関しても、マスコミに登場するのは主に不正に受給している人ばかり。しかし実際は、受ける資格があるのに受けられない人たちばかりだ。何度申請しても、何かしら難癖をつけられて断られる。弱い立場の人々は、もう追い込まれるしかない社会が、そこには広がっていた。

そこには、貧しくても強く生きることこそ美徳、という日本人ならではの「清貧」の精神があると指摘する。貧しくても、がんばって勉強をして偉くなることこそ尊い。人々はそのような美談を好む。
しかしそれは、本当に一部に過ぎない。ほとんどの子どもたちは、貧しさに学習意欲をそぎとられ、夢を見つけることもできず、幸福も感じられず、また同じような子どもたちを生み出すことにもつながる。国は「機会の平等」を掲げているというが、こういった子どもたちにはその機会すら与えられていないと著者は嘆く。

何ということだろうか。子どもが、貧しさのあまりすべてを諦めるしかない社会とは。

現状を嘆くばかりではない。著者はきちんと代替案も示している。
そのひとつが、従来家庭単位で考えられていた救済を、子ども単位で行うべきというものだ。両親にいくら資産があるのか、働こうと思えば働けるのかどうか、親戚にお金を借りられるのではないか。そのような「大人の事情」は子どもには関係ない。今その子どもが置かれている状況がすべてであり、それが保護に値するものだと判断されれば救済を行う、というものだ。

このような問題は社会の縮図であり、解決するのは非常に難しい複雑さがあるだろう。そして、著者が提示するような案で本当に何とかなるのかどうかも分からない。
しかしこの状態が本当なら、絶対にどうにかしなくてはならない。このまま社会の暗部に目を瞑ったまま暮らしていくのは忍びない。

著者の阿部彩氏は、MITを卒業し国際連合でも働いた経験があるそうだ。
家庭も子どもも持ち、非の打ち所のない「超エリート」の彼女が、母子家庭を初めとした日本の貧困を声高に意見することに、非常に意味があったのではないかと思う。

基本的にデータの羅列で構成されているため、読みにくいこともあるかもしれないが、この現実は日本国民であれば誰でも知っておく必要があると思う。