「顔が見える支援」を安易にやるべきでない理由

studygift関連の炎上は「Campfireなだけによく燃えましたね」などと言っていられないほど、中々どうしてすさまじかった。
女性はめちゃくちゃに責められ、男女関係モゴモゴ、ついにはリーダーの家入一真氏が謝罪するに至った。

ここまで随分かかったなという印象だけども、謝罪文の中になお、気になる点がある。

「顔の見える新しい支援の形を実現したい」。 ~中略~ 僕が実現したかったのはまさにここでした。従来の “どんな人にいくら渡るのか解りにくい寄付” では無く、 “この人に共感するから支援” を実現したかったのです。

この「顔が見える支援」はとても崇高な理想だが、同時にとても難しいものだ。

寄付や支援は、決して少なくない「貸し借り」の概念が発生する。もちろん、寄付したのだから貰った側がどう使おうが勝手なのだが、残念ながら支援側の「あれは自分の金」という感覚は消えない場合がある。

だからこそ「あしなが育英会」のように「具体的に誰」というのはわからない形態になっているのだし、臓器のドナーにしても匿名で行われているわけだ。

例えば、被支援者が将来的に大成功して支援者と再会したとする。

おそらく家入さんはこの「邂逅」を美しいものだと捉えているだろう。「あ、あなたはあの時の……」というような。もちろんその可能性もある。

けれど「あの時、お前を助けてやったのは俺だ。だから見返りをよこせ」となる可能性は本当にないだろうか。善意や期待は、それが裏切られた(と本人が感じた)時、凄まじい負の暴走を起こすことがある。身の危険さえ危ぶまれるほどの。

スタッフはそこまでリスクを受容した上で、サービスを設計したのだろうか。少なくとも、それを彼女に説明してやったのだろうか。

<理想>
・支援した側された側がともにハッピーな、透明な仕組みを作りたい。
<リスク>
・支援という形で何かしら恩を着せたい、弱みを握りたい、見返りを受けたいと思う人がいること。

今回のサービスはあまりにも性善説に頼りすぎてしまったのかな、という気がしてならない。

何か新しいサービスや企画を思いつくと「これは新しい! 他のどこもやっていない!」という、もう鬼の首を取ったような躁状態になることはよくある。
しかし「誰もやっていないこと」は、えてして「あえて誰もやらなかったこと」だったりする。やらないのは、やらないなりの理由がある。
ウェブサービスはスピードが命でそれこそが醍醐味でもあるが、今回の場合は少なくとも「2,3日で勢いで作っちゃいました。テヘ」で済まされるテーマではなかった。

今後は、例えば
・支援者側は顔を出さない
・寄付金を(一般的に「支援した」と言えるほどではない程度に)少額にする
・対象を分散する

くらいの対策は必要かもしれない。家入さんの理想とは離れてしまうかもしれないが。

「学費に困っている学生を助けたい」という思想はとても有意義なことであると思う。それに対して動き出したチームに非難だけを浴びせるのは建設的ではない。
だからこそ「誰も傷つかないこと」を最優先とした、慎重な仕組みを作りを期待します。

怪物アプリ「LINE」は新しいコミュニケーションを創造したか

携帯用の無料通話、チャットサービスの「LINE」の勢いが止まらない。
ダウンロード数は2000万(国内800万)を超え、各通信会社の帯域は次々に陥落した。

そして周りでも、LINE利用者がどんどん増えている。
特にインターネット初級者、いわゆる「普通の人」に多く、他のアプリはなんだかよくわからないがLINEだけはとにかく使う、という人があふれ始めた。

今回はもはや「社会現象」と言っても過言ではないこの「LINE」人気の秘密を分析してみた。

無料通話

LINEはテキストメッセージだけではなく、音声通話も無料で利用できる。通話品質はお世辞にもいいものと言いがたいが、「無料」の力はやはり大きいだろう。
しかしそれだけでは、競合のSkypeなどに対して優位性がない。LINEの強みはここではなさそうだ。

「スタンプ」の存在

LINEには「スタンプ」という「絵」が数多く用意されており、これらは絵文字とも顔文字とも違う。

例えばこれや

 

 

 

 

 

 

 

これ。

 

 

 

 

 

 

これら一見珍奇なキャラクターたちの人気は絶大で、多くの人が好んで使う。若年層の利用画面を見ると、文字の代わりに彼らで埋め尽くされているほどだ。

LINE上で重要な会話がされることは少ない。言ってみれば「くだらない茶飲み話」をするために利用するのであって、その時に彼らは利用者の言葉を何よりも雄弁に代弁しているのだ。

そして、このデザイン性にも絶妙なものを感じる。
女子高生からオジサンまで、性別や年齢を問わず受け入れられるデザインというのは実は相当難しい。このデザインセンスは、もしかしたらLINE勝利の最大の要因かもしれない。

そもそもスマホ対応の常識は、小さなディスプレイにいかに効率良く情報をねじ込めるかであった。そのために画像はサムネイルになり、記事は「続きを読む」で折りたたまれ、コメントは別ページに遷移することとなったのだ。

しかしこの珍奇なキャラクターたちは我が物顔でディスプレイを占領する。

従来の常識に凝り固まっていては、こんなにでかい「絵」は企画段階でNGとなったはずだ。
これを「面白い。いける」と判断した上層部も大したものだと思う。

返事をしなくて良い

LINEが一時的な流行で終わらずに、今後長期的に利用されるであろうと考えられる理由がこれ。

メールは基本、返信をしなければという心理的な強制力が働く。それゆえに返信がないと途端に落ち着かなくなるものだ。

そしてSNSも、リアクションを要求される類のコミュニケーション・ツールだろう。日記や近況を書き込むのはそれを知らせたいのではなく、リアクションが欲しくて書きこむのだ。

SNSの利点はテキストベースで時間を超えられる(一週間前の出来事にリアクションができる)ことだったが、LINEはそこにもう一度時間の概念を持ち込んだ。

文字を電子化して届けるE-mailでもなく、掲示板に書きこんで公衆に晒すSNSでもなく、場所は違えどケータイを通じて同じ時間を共有し、ただダベり続ける「ゆるいつながり」を実現した。

携帯のアドレス帳は何よりも強固なつながりというエントリを書いたことがあるが、ここをうまく捉えたのも功を奏したのではないだろうか。

ここまで振り返ると、LINEがやっていることは懐かしのICQや、Microsoft、Yahoo、AOLのメッセンジャーのそれであり、それをモバイルに持ち込んだ、というだけの話だ。

しかしFacebookやGoogleもチャット機能を取り入れている中、単独アプリというディスアドバンテージを背負ってもなお快進撃を見せたのは、これら要素が神業的に組み合わさった結果だろう。
LINEは、携帯、チャット、スタンプで新しいコミュニケーションの形を作ったのかもしれない。

スマホ時代の到来と共に様々なアプリが今後も現れるだろうが、まず最初の「覇者」となったのはLINEだったと、後年振り返ることになるだろう。

「すきま時間」の奪い合いからWebビジネスを考える

娯楽に関するWebビジネスについて「すきま時間をいかに奪うか」をキーに考えてみた。

テレビ、新聞、ラジオなどの旧来のメディアも、基本的には暇な時間をいかに奪うかが目的であった。
昔、皆が巨人戦をテレビの前で観戦したのは、野球中継しか娯楽がなかったからとも言える。バラエティ番組もしかり。

しかし今はその可処分時間に対してネットというライバルが現れた。ブログ、SNS、twitterなど、人々はすきま時間に新たな娯楽を覚えたのだ。

そういった意味では、モバイル端末はまさに格好のデバイスだ。移動中、就寝前、休憩時間など、肌身離さず持ち歩くこの端末には、まだ様々な可能性が眠っているだろう。

今や社会現象ともなった「ソーシャルゲーム」も、ゲームとして見れば非常に単純なものばかり。いわゆる「ゲーマー」達が「クリックゲー(クリックするだけの単純なゲーム)」と揶揄するものである。
例えばPCゲームの歴史を紐解くと、このクリックゲーは極端に嫌われた。PCでゲームをするようなゲーマーには、あまりにも物足りないからである。ゲーム開発者たちは、ゲームシステムをより複雑に、グラフィックをより洗練させることでユーザを満足させようとした。

しかし多くのマジョリティには、その複雑さは到底受け入れがたいものだった。結果、誰にでもできるほど単純で、暇な時間を埋められる「クリックゲー」が賛辞をもって迎え入れられたのだ。

ただそのクリックゲーも、家に帰ってリビングでやる人は多くないと考えられる。PCやテレビ、その他多くの魅力的な娯楽に対し、その手軽さは一気に「いつでも出来るもの」に格下げされてしまうからだ。

YouTubeやニコニコ動画などの動画コンテンツもしかり。PCも含め、小さな端末で見るのに2時間の映画は適さない。2、3分、長くて10分程度の面白く手軽な動画を求めて、人々は端末を操る。
旧来型の考えに凝り固まっていると、いかにして映画やテレビなどの旧来のソフトをネット経由で見せるかにこだわってしまう。もちろんそれも将来的に大事だが、今この瞬間に求められているのはもっと手軽に見られるメディアであり、ソフトなのだ。

それでも、ソーシャルゲームやニコニコ動画をやらない人もまだまだ多い。この次に来るものは、果たしてなんだろうか。

手軽、短時間、暇つぶし

これらをキーワードにして考えると、次の波が生み出せるかもしれない。

コミュニティサイトを形作るもの

普段何気なく使っているコミュニティサイト。しかし、作る側は当然様々な計算を施している。
何気なく作ってもうまくはいかない。

ショッピングサイトは「購買欲」をいかにくすぐるかが勝負だが、コミュニティサイトも人間の「欲」をうまく満足させることが肝であり、その「欲」は普段表に出せないものが多い。

その欲とは何か。
最近コミュニティサイトを作ることになったので、自分のまとめのために書いとく。

■自己顕示欲

コミュニティサイトに入って、まず最初に心地よさを感じるのがこれ。
通常のサイトは、基本的にすべての人にとって平等に作られているが、コミュニティサイトはそれぞれ見ているものが異なり、各人にとってオリジナルだ。
そこには嫌な上司もいなければいじめっ子もいない、すべての中心が自分である快適な世界が広がっている。例え、現実の世界ではそうでなくとも。

仕事の愚痴を聞いてくれ、身の回りで起こった些細なことにも同調してくれる友人がいる。この「心地よさ」をくすぐるのが、コミュニティサイトの第一の肝だ。
そのことによって、多くの人が自己を惜しげもなく披露できる。

「目立つのが嫌い」と口で言う人は多いが、どんな人間でも自分に注目が集まるのに心地良さを感じることがある。

例:日記、アルバム、(バッジとしての)コミュニティ

■所属欲

人間は、集団に属することで気分が安定する。もちろんマイノリティである自分に酔いしれるときもあるが、常にひとりでいることには絶対に耐えられない。それはすなわち「孤独」だからだ。

ある一定以上の社会的つながりを持っていなければ、人間は正常に生きていけない。アレキサンダー・セルカークだって、一生一人で過ごしてはいない。

例:コミュニティ、ファンページ、ハッシュタグ

■自己肯定欲

自己顕示欲と近いが、多くの人は「自分を認めてもらいたい」と願うものだ。
面白いと感じたことや、趣味や嗜好に同調してもらえること。それは、最高の安心感を伴って自己を内面から肯定してくれる。

そして他人の情報を見ているときにも、実はそれを感じている。
自分の日常は憂鬱で退屈なものだと思っているが、近しい友人も同じような生活をしている。本当にやりたいことがあってもやれない自分がいる。でもそれも自分だけじゃない。友達もそうだ。
良くも悪くも、人は他人を見て安心感を得ようとするものだ。

例:あしあと、イイね、日記へのコメント、他人の日記

■新規牲

欲とは異なるが、これはコミュニティサイトで最も中毒牲のあるものだ。
ややもすると、多くの人が「飽き」や「手間」から、自己発信をやめてしまう。
しかしそれでもコミュニティサイトにアクセスするのは、そこに新しい情報が待っているからだ。ほとんどの人にとっては取るに足りない、しかし当人にとっては面白い、親しい友人が発信する情報がそこにはある。
例え自分が更新をしなくても、頻繁にアクセスしてしまう。逆に友達が誰も更新をしなくなったら、自然と足が遠のく。

YahooのトップページやGoogleNewsに何度もアクセスしてしまうのも、原理は同じだ。

例:あしあと、友達の更新情報

■関係性の復活

SNSにしばらくアクセスしなくなっても、退会する人は稀だ。それは、いつ来るかもしれない旧知の友人からの便りを待っているからである。
今までの社会では諦めるしかなかった関係性が、いつの日か復活するかもしれないからだ。
個人的には、これこそがコミュニティサイトでもっとも価値のある点だと思っている。

例:友達検索、友達申請

コミュニケーションを上手に行うことは、人生を豊かにし有利にする。
しかし、それをあからさまに行うと、結果的に失敗する。うまいこと隠しつつ、それでも欲求を満足させつつ……

コミュニティサイトを作るのは中々どうして難しい。

これ以上Twitterを続けたら弱い人間になる気がしてやめた

当ブログにもあるが、個人的に使うためのTwitterアカウントがもうひとつあった。
実名は出していないが、自分のアイデンティティーを理解している人を中心にフォローしあった。

必要に迫られて始めたものの、確かにこれは面白いと感じた。
いつの間にかTLを毎日眺め、寝る前にはすべてのレスを確認し、自分の発言にRTがつけば喜び、@つきの発言には丁寧に返信していった。
要するに、はまっていたのだ。

しかし、ある時ふと思った。
このままでは、自分はゆっくりと崩壊していくのではないか、と。

私が尊敬している人の一人に、Web系を生業としているにも関わらず、Twitterをはじめとしたソーシャルサービスをまったくやらない方がいる。
彼女はいわば貝のような人で、交際範囲も広くはない。
しかし、自分が深く愛する人たちに囲まれ、とても幸せに暮らしている。

きっと「Twitterとかやってくださいよ」と言っても「そうね。でも私はいいわ」と笑顔でかわされてしまうだろう。

そういった生活がしたいわけではないけれど、ひとつ確かなのは、彼女が強靭な精神力を持ち、とても満たされていることだ。

自分を振り返ってみると、やはり愚痴や不満の類が少なからずある。
不快な思いをしたとき、何となくそれを吐き出したくて、慰めてもらいたくて、携帯電話やパソコンに向かう。

それは不満を発散するためにも正しい使い方の一つであり、否定するつもりはない。
ただ、あくまで個人的に、こんなことを続けていたら、嫌なことを飲み込めなくなる体になってしまうのではないかと思った。
彼女、もしくは多くの人のように、何かあってもぐっとこらえて、家事やら炊事やらいつもの日常を淡々と続けていける人ほど、強い人間なのではないかと思えてきた。

そして、自分のつぶやきはほとんどが「ネタ」系のものだった。
面白いことを発見したとき、思いついたとき、誰かに笑ってほしくて「ネタ」を投下し、反応があれば素直にそれを喜んだ。
しかしそれは、目の前にいる友人と世間話をしているのとは何となく違うのではないか……

思い出話を、近況を語り合って笑いあうのはその場の時間を楽しむためが主。
これがネット上では、自分の欲求や胸の空白を埋めることが主なのではないか。たとえば、渾身のネタに反応が薄ければ、理不尽としか言いようのないいらつきを感じた。

それに、自分の意見に共感を得て、賛同してもらいたくて、賞賛してほしいのは、そもそもこんなちっぽけな場所じゃない。
もっと労力をかけた大きなものを作ってそれを公の面前にさらし、これこそが私がやりたかったものだ、私が生きている意味なのだと強く言いたい。だからこそ、私は生きているはずだ。Twitterでそれを切り売りしている場合じゃないはずだ。

そう思い、今までの書き込みをすべて消してTwitterをやめた。

もしかしたら、いつの日かまた「戻ってきちゃいましたwww」なんて言って再開するかもしれない。私は弱いから。

しかし少なくとも今は、辞めてよかったと思っている。
今まで、一瞬の感情の動きだけで喧騒の中に吐き出していたものが、自分の血肉になっていくように思えている。