「ランチ行きましょう」と誰も言い出さない問題について

時刻は午後1時。わりとお腹も空いてきた。そろそろお昼に行きたいが、「ランチ行きませんか?」と言い出しにくい雰囲気。

このままではダラダラと時間が流れ、余計に腹は減るし、中途半端に遅くなるし、お気に入りのあの店も閉まっちゃうしでいいことなんかひとつもない。それは分かっているはずなのに、誰も「ランチ行きませんか」と言い出さない。

このシチュエーション、特に昼休みの時間が決まっていないホワイトワーカーの方なら、意外と経験があるのではなかろうか。

一方で、「そんなこと感じたことがない」という人もいるだろう。それはそれで大いに結構。世の中には、「ランチ行きませんか」と気軽に言える人と、そうでない人がいるのである。

前者の思考回路は簡単だ。
自分はお腹が空いた。時刻も1時だ。 > みんなも同じはずだ。 > 「ランチ行きませんか」

である。一方後者はどうだろう。
自分はお腹が空いた。時刻も1時だ。 > しかしみんなも同じとは限らない。朝ごはんが遅かった人もいるだろうし、今日は食欲がないという人もいるかもしれない。もしくは一人でお昼食べたい派かもしれない。または、私となんか一緒に行きたくないかもしれない。 > とはいえ一人で出て行くのも感じが悪い。 > 何も言わずにじっと耐える。

前者は楽天的で、後者は明らかに考え過ぎだ。

大抵の場合、複数の人間が集まると役割が自然に形成されていく。誘う側と誘われる側に分かれるのだ。

しかしごく稀に、後者の素養を持った人だけが集まってしまうことがある。これは地獄である。お腹が空いているのに、誰もご飯を食べたがらないのだから。

「ランチ行きませんか」が難しいのは、「あらかじめ約束していない」のが大きいだろう。すでに予約も済ませている夜の飲み会に行くのとはわけが違うのである。

ただ、別の側面もある。それは「断られる」経験に対する耐性の問題だ。

気にしない人の思考は、「一度のランチを断られた=一度のランチを断られた」という非常に単純な等式だ。「今日一回のランチを、何かしらの理由で断られた」にすぎないのである。しかし、気にしぃの思考は違う。彼らは「一度のランチを断られた=私と一緒の行動を望んでいない。もう二度と誘うべきではない」となりがちである。

世の中には色んなタイプのリーダーがいるが、この「誘う側」に多いのは確かだろう。人を先導し、他人を巻き込み、誰かを待つことはせずに突っ走る。スティーブ・ジョブズや孫さんが、誰かにお昼を誘われるのを待っているとは思えない。

お昼の話から思わぬリーダー論になってしまい結論もないものの、リーダーを望む人は、まず誰かをランチに誘ってみるところから始めてはいかがだろうか。

一人暮らしは大事だけど、長すぎるとダメ人間になる説

マツコ・デラックスさんが、女性も一人暮らしをしないといけないと言っていたらしい。
http://news.livedoor.com/article/detail/7683054/

一人暮らしの平均年数というものは分からないが、私のそれは相応に短くない期間に及んでおり、かつ現在進行形である。

人類の長い歴史を鑑みるに、個人が一人でも快適に暮らせるよう住宅や社会が適応され、それが社会的にも認められるようになり、あまつさえ件のマツコ・デラックスさんの発言のようにある程度のステータスさえ持つようになったのは、世界的に見てもここ数十年のことだろう。

経済的にもインフラ的にも、「一人で暮らす」ということが困難だった時代に比べれば、その変化は正当であるし、好ましいとも思うが、しかし最近個人的には、一人暮らしは長すぎると良くないと考えるようになった。

結論から言ってしまうと、それは一人暮らしというものが実に快適すぎるからである。

一人暮らしを始めると、今までの日常の細かなことが実はストレスになっていたことに気づく。
たとえば風呂やトイレに入りたくても誰かが使っているとか、いつも誰かが散らかすとか、自分が買ってきたはずのプリンがなくなってるとか、そういったことはすごく小さいけども、実はちょっとしたストレスの原因になっていたのだ。

一人で暮らしていると、当然のごとくそれらすべては起こりえない。
トイレには誰も入っていないし、自分が買ってきたもの以外は冷蔵庫に入っていない。何をしても、いつ帰ってきても、完全なる自由である。この自由は明らかに素晴らしく、私も一人暮らしを始めた当初は楽しくて仕方がなかった。

そして一人暮らしの部屋は、自然と最適化されていく。モノの配置、買い物のサイクル、衛生状態、その他諸々が、自分が最も心地よい状態に向かっていくのだ。

一人暮らしが長い人間は、これが侵されることを非常に嫌う傾向がある(私も含めて)。たとえ傍目にはそうは見えない乱雑な部屋だとしても、日々暮らしていくうちに最適化された空間は、心が休まるものだ。

経済的に自立し、いわゆる家事炊事などの身の回りのことも一通りでき、社会的にはステータスとも認識される一人暮らしだが、しかし寛容さの醸成という意味では、必ずしも是であるとは言えない。そして、それが長くなればなるほど、その性質は凝り固まってしまうように思う。

やはり人間は誰か他人と暮らさないと、少なくとも忍耐強さは失われるように思う。

生きるために生きる、状態

誰しも、好きなことをやって生きたいと願うだろう。
好きなことを仕事にしたり、誰とも交わらずに自給自足で生きたり、何もせずにただひたすら寝ていたいという人もいるかもしれない。

でも、中々そういうわけにはいかない。
多くの人は、生活の糧を得るために働かなければならないし、それは必ずしも好きなことではない。

毎日満員電車に揺られて、ランチを食べて、たまにお酒を飲んで、週に2日休んで。
季節や年月の移ろい、周囲や自分の変化、そして変わらないこと。

やりたいことをやれるわけでもなく、楽しみや喜びがあるわけでもなく、ただ毎日が過ぎ去っていく。

それは、ただ「生きるために生きている」という状態かもしれない。

そしてその状態とは、非常につらいものだ。
愛する者も、守るべき者も、目標もないのに、自分は何のために生きているのか。

大事なものを得られた人や、経済的に成功した人に、陰で笑われていると感じることもある。それに比べて、自分の人生は何て惨めなのだろうと。
老いて、誰にも鑑みられずに孤独の中に死んで、「あぁはなりたくない」と思われることもあるかもしれない。

そうやって生きてきた人生の最期に、人は、自分の人生は生き抜いた価値があったと思えるものだろうか。それは幸福なものだったと、生きてきた意味は確かにそこにあったと思えるだろうか。

たとえばそうでなかったとしたら、その一生には価値がないのだろうか。自分の人生はなんて無価値だったのだろうと、なぜここまで生きてきたのかその意味が結局わからなかったと絶望して死ぬのだろうか。

自分の命はクソみたいだったと、泣きながら死ぬのだろうか。

それでも、果たして生きていく必要はあるのか。
どうしたって逃げずに立ち向かい、何があろうが困難を乗り越えて進んでいかなければならないのか。

自分を生かしているものは、周囲を悲しませないためだけで、例えば明日、自分がふといなくなってしまっても悲しんでくれる人がもういないのだったら、そのまま消え入ってしまいたいと思うことがあっても、その感情を責められるだろうか。

答えはわからないし、正解はないけど、まぁそれでも、人生はクソみたいだと思うよりは素晴らしいものだと思えたらいいなとは思う。
まぁよかったかと、ある程度のゴールには達しられたと、健やかに幕を引ける日がいつかくるのだと信じたい。

生きていたいと思う気持ちは、防衛本能以外にもっと具体的に何かあるはずなんだろう。きっと。

エアロプレスは最終解か? 面倒くさがりのコーヒー好きが出した答え

何があってもどこにいても、365日必ず飲まなくてはいられないほどにはコーヒー好きである。
休日の朝、一人ガリガリと豆を挽くのは、まさに至福の時だ。

そして、最高のコーヒーの淹れ方はハンドドリップだと信じているが、いかんせん時間がかかる。豆を挽くところから始めると、1杯出来上がるのに10~15分は必要だろう。
生来の面倒くさがりある自分にとっては、このトレードオフは非常に重要な問題だ。

朝はやはり時間の余裕がないし、お湯の温度管理に失敗すると、時間がかかり過ぎてコーヒーが冷めてしまう。

これを解決する最適な手段はなんだろう。やはり、コーヒーメーカーで我慢するしかないのか。

そこで、登場したのが「エアロプレス」
これは簡単にいえば、空気圧の力でコーヒーの旨味を出す手法だ。あの小川珈琲が広めたと聞いたことがある。
エアロプレス コーヒーメーカー
エアロプレス コーヒーメーカー

エアロプレスの利点は、何と言っても時間短縮。10分以上かかるハンドドリップが、空気の力を借りる事で数分で完了するならば、これはコーヒー好きには大変な発明である。

以前から気になっていたし、思い切って購入して試してみたところ……

正直、最初はかなり難しい。これはハンドドリップ以上に技術が必要だ。

やり方の順序として、
1:(筒の中に)粉を入れる
2:ゆっくりとお湯を入れる
3:かき混ぜる
4:20~30秒かけて圧縮する

となるのだが、「4」に入るまでにある程度の時間がかかるため、最初の1/4程度はどうしても自然にドリップしてしまう。
それが原因なのか、出来上がったコーヒーは深みが足りない。

「4」の工程時に、圧縮棒をあえて少し戻して、そのまま数分放置するというやり方(その間はドリップは止まる)も試してみたが、結局味にそれほどの変わりはでなかった。
それに、結局時間がかかるのであれば、エアロプレスにする利点がなくなってしまう。

しばらく試行錯誤して挑戦したものの、結局、
 ・時間がある時はハンドドリップ
 ・ない時はコーヒーメーカー

という結果となってしまった。

ハンドドリップ>>>超えられない壁>>>エアロプレス>コーヒーメーカー

といったところだろうか。

ただ、私は濃いコーヒーが好きなので、逆にさっぱりしたものが好きな方にはいいのかもしれない。

しかし、まだ自宅でサイホンを使ったことはないし、フレンチプレスやパーコレーターも試していない。
うまいコーヒーと有限の時間とのトレードオフは、まだこの先も続きそうだ。

何だか中途半端な結果となってしまったが、エアロプレスを試してみようと思った方の参考になれば。
また、賢いエアロプレスの使い方をご存じの方がいれば、ぜひ教えて下さい。

自転車が車道を走れないのは、日本人が信号を守るから

先日、車道を走っていた自転車の高校生が、そのすぐ後ろを走っていたトラックに轢かれて死亡してしまうという痛ましい事故が起きた。
詳細を聞くと、高校生が無謀な運転をしていたわけでもなく、トラックが煽っていたわけでもなく、道路の端があまりにガタガタで、つまずいてスリップしてしまったことが原因らしい。
もちろん、トラックの運転手は予測して運転すべきだったろうが、それにしても何ともいたたまれない気分になる。

「自転車は歩道を走るもの」という誤解をなくしたい

言わずもがな、特に都心の自転車の数はここ数年で本当に増えた。
そして、こちらの方も主張するような「自転車は車道」という認識も、かなりの人に広まってきたように思う。

しかし、正直今の日本で、自転車で車道は危険すぎるように思う。都内の幹線道路をママチャリで走ることなど不可能に近い。
※交通ルールを守れば、自転車も歩道を走ることができます。

これは上述の事故でもあるように、多くの車道が自転車には適していないこともあるし、特にタクシーをはじめとした職業自動車がスピードを出し過ぎることに大きな要因があるのではなかろうか。

日本の自動車は、本当にビュンビュン飛ばす。道交法上は歩行者を待たなければいけない、信号がない横断歩道でも、むしろ加速して歩行者をかわそうとさえする。時には、生活道路だろうとお構いなしに飛ばしまくる車さえいる。

海外だと、地方は別として都心部の車は、荒っぽいものの、速度そのものはそこまで出していないように思う。
それがどんなに道路のど真ん中だろうと、歩行者が手を上げて渡ろうとすれば、大概の車は速度を落として通してくれる。ましてや、クラクションを鳴らされることなど、インドと中国以外ではあまりない(逆に、鳴らされたら相当ヤバイ相手だからすぐ逃げようと思う)。

海外のドライバーは、歩行者や自転車がいつどこから飛び出してくるか分からないから速度を抑えている、というところはあると思う。

日本人は、これはドライバー、自転車、歩行者に関わらず比較的全般に、忠実に信号や道交法を守る。だからこそ、日本のドライバーはよもや道路に人が飛び出してくるとはほとんど考えていないし、もっと言えば、万が一飛び出してきてはねてしまっても、規則を守らず飛び出してきた相手が悪い、という考え方なのではないかなと思う。

そりゃそうだろ、と思う気持ちもわかるし、それで自分が罪に問われたら辛いな、とも思うけれども、そもそも自分は、ともすれば人を殺してしまう可能性のある巨大な鉄の塊にまたがっているのだから周りに気を配らなければ、となってもいいものを、「決まりを守らない相手が悪い」「自転車は、車サマの車道にあとから来た、遅くて厄介なシロモノ」という認識が先に立っているのが、日本の平均的なドライバーではないかな、という気がするがいかがか。

どっちが良いのかなど言えないけども、少なくともあと数十年は車、自転車、歩行者が共存しなければならないし、もう少しお互いを、とりあえずは強いものが弱いものを思いやる気持ちを持つことと、道路そのものの整備を進めないと、この「自転車は車道」は難しいのではないかな、と思った。私自身は自転車に乗ることはあまりないのだけれども。
ちょっとだけ、風が吹けば桶屋が儲かる的に考えてみました。