早期教育について調べている際、「Gifted Child」という言葉を知った。
「Gifted and Talented」という言葉もあり、前者は主に学力、後者は芸術的な才能を指すようだ。
※現地で見たり経験したわけではなく、あくまでネット上の情報を見たうえでのエントリです。
日本語にすると「英才教育」となってしまうが、「gifted」という言葉が示すように、日本でよく見る「幼児期に施す早期教育」とは考え方が根本的に異なる。
それは「天才は、そもそも生まれながらに違う」というものだ。
こう聞くと「身もフタもないなぁ」と思ってしまうが、それも「人間観」や「平等」という“超根本的な価値観”が、日本と欧米でまるで正反対だからである。
○「人」という存在の根源
- 日本:親がいて、その親がいて自分がいる。先祖代々培われた伝統が大事。
欧米:すべての人は、神によって作られたオリジナル。
○才能について
- 日本:誰でも、努力さえすればどんなものにでもなれるし、どんな夢も叶う。
欧米:誰もが同じ能力を持っているわけはない。成長・発達のスピードもそれぞれ違う。
○機会平等について
- 日本:誰にでも等しく、同じチャンスを与えることこそ「平等」である。
欧米:それぞれの個性を認め、それにあったチャンスを与えることこそ「平等」である。
どちらも一理あるような…
ただ、欧米の人は日本の価値観に納得しなそうだな… という気はする。
確かに日本では特に「遅れている」子どもにスポットが当てられる傾向がある。
落第は恥であり、跳び箱が飛べない子どもは延々と残される。
それは、評価制度が画一的だからだろう。日本では、
- ・計算が速い
・運動がうまい
という「絶対的な指標」が存在し、それに対してどれだけの能力があるかで、その人の優秀さが判定される。
しかし逆に「進んでいる子どもが遅れている子どもにあわさせられる」ことにはほとんど触れられない。好きで、それを追究したくて、更にどんどん先に進めるかもしれないのに、ある時点でストップをかけられる。
欧米では、それこそが「進んでいる子どもに対する機会損失である」と考えるようだ。
‘gifted’の判定はIQテストが中心だったが、今はそれだけでは不足があるということで、色々と試行錯誤の途中らしい。
認められた子は特別クラスに割り当てられ、その才能を存分に開花させるためのカリキュラムが用意されているとのことだ。
‘gifted’の子どもには、
- ・のみこみが速い
・何でも自分でやろうとする(内向的である)
・興味がある分野に対しては、並外れた集中力を示す
という特徴があるそうだ。
ここで、「もしかして、自分は’gifted’だったのでは!」と思ったのは私だけではないはず。
個人的には、キレイゴトは抜きにしてやはり人類は一部の頭脳にその他大勢が恩恵を受ける、という構図は否定できないと思う。
どんな人でも、努力さえすればレオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタインになれるとはとても思えない。
しかし、もし日本でこれをやったらどうなるか。
周囲の「あの子だけ特別扱い」というねたみは消えないだろうし、giftedがその他の子に仲間はずれにされる、なんて光景も容易に目に浮かぶ。
現に、やはり欧米でも「こういった選抜クラスのような教育法は、おちこぼれた子たちの学習意欲をそぐだけだ」と反論する人もいるという。
それに日本人は「年齢」を重要視するので「飛び級」も中々なじみそうにない。
優れている年下が「優秀だ」と言われるのではなく、「生意気だ」と言われてしまうのが日本だ。
gifted教育のよしあしは別にして、文化が根本的に違う以上、根付かせるのは正直難しいだろう。
アメリカでも本格的に始まったのが1993年頃からだというから、実際の効果を検証するサンプルが少ない。おそらく、何らかの弊害もあるに違いない。
しかしそれでいいのか?という疑念も残る。
欧米の実例を参考にしてから…
でもそんなこと言っているうちに、世界から取り残されてしまうかも…
うーん。。 難しいなぁ…