テレビ業界に才能が集まるのはもったいないという話

日本において、テレビは未だに最も大きな力を持ったメディアであり、しばらくそれは揺るがないだろう。少なくとも、あと20年くらいは続くように思う。

それゆえ、その門は大変狭く、高い学歴と優れた成績、もしくは強力なコネでも有していないとくぐることは難しい。華やかで、常に憧憬の眼差しを浴びるその世界に、多くの、特にエンターテイメントを志す才能が向かおうとする。

それは自然な流れだが、しかし最近、そんな兆候をちょっと「もったいない」と思うようになった。理由は、その消費メディア的特性と、ビジネスの対象が日本国内に限られている点の2つだ。

テレビ番組1本にかけられる予算は、他とは比べようもないほど膨大だ。わずか1時間に億単位のマネーが投資され、大勢の人が関わる。

しかしそんな多くのお金と時間をかけた作品が、決まった時間にテレビの前にいないと原則的には二度と見ることができない、というのはあまりに時代に逆行しすぎていないか。素晴らしい作品は、誰にも平等に見られるチャンスを与えるべきだろう。

テレビ界には、一瞬の娯楽として消費されるにはあまりにもったいないほど多くの力が集まっているはずだし、その流れに大量の才能が汲みいられるのは損失でさえあるように思う。高い能力のある人には、繰り返し見る価値のある作品を集中して作る環境が与えられるべきではないだろうか。

そして、そのインターナルな特性だ。日本という国の生産力が弱まるのが確実な状況で、国内にとどまっているビジネスの寿命は長くない。

特に、最近のテレビ番組は内にこもりがちなものが多い。「日本ってすげー」的なアレだ。そのような書籍も多く売れているし、これは世相を、残念ながら日本の国力が弱まっているという世相を映したものかもしれないが、しかしせっかくの多くの才能が、日本礼賛を日本国民だけに発信して終わってしまうのは、本当に余計なお世話だが、もったいないという感情しかない。優秀な人間は、もっと外を知り長所を取り入れるべきだし、もし日本が素晴らしいのだとしたら、それを外に向けて発信すべきだ。東大を、早稲田を、慶応を出たエリートが、自分で自分をすごいと言って内輪で安心しててどうする。

だからインターネットは優れている、テレビ行く奴はバカ、などとは思ってない。むしろ、映像とITはとても相性がいいものだ。「テレビ vs ネット」などと妙に敵対視する人がいるが、それはあまりに浅はかであり、テレビはもっとITを利用すべきなのだ。

そのためにはITの世界にも多くの豊かな才能に来て欲しいと思うし、多くの才能が輝くために何かできることはないかと考える。

映画中の、子供を殺す表現手法について

最近の映画において、「子供を殺す、または痛めつける」という表現方法が安易に用いられ始めたのが、すごく気にかかっている。
映画演出の不文律として「絶対に使ってはいけない」と叩きこまれていただけに、この兆候には戸惑いすら感じる。

例えば、『ミスト』という映画がある。
(以降、ネタバレを含みます)

舞台はある片田舎。
人が次々と死ぬ、得体の知れない霧(ミスト)が発生し、住民をパニックに陥れるという物語だ。

この作品では、ラストに主人公が自分の子供を殺す。
恐ろしい怪物に追われてすべての希望を失った主人公が、せめて最後に自分の手で、ということで子を殺める。

この映画自体は好きではない、というか嫌いだが、「子供の死」が物語の重要なファクターとなっているため、表現方法としては成り立っている。

よく似た内容で『ハプニング』という映画がある。
ある日突然原因不明の自殺が多発。人々は次々に理由もなくビルから飛び降り、銃口を頭に向け始める。
主人公は妻らを守りながら逃げる、という設定だ。

物語の中盤、主人公らは途中で出会った中学生くらいの子供たちと行動を共にするのだが、以下のようなシーンが有る。
・パニック状態の主人公たち。その時、かすかな望みとして小屋を発見。これで助かる!
・しかし、小屋の住人は疑心暗鬼状態で発砲。子供たちは死ぬ。
・助かることなどできない、と主人公たちは悟る。

この場合、この子たちの死には「この先どうなってしまうのだろう」という観客の不安を煽る効果しかない。それだけなら他にいくらでも方法があるにも関わらず、演出効果を上げるための道具として「子供の死」が使われているのだ。

もっと軽い例だと、『TED』というコメディ作品の中にも、襲い掛かってくる子供をあっさりとぶん殴る、というシーンがある。
これも「ひとつの笑い」として消化されるだけで、なくても成立するシーンだ。

『ハプニング』でも『TED』でも、登場する子供は確かに生意気だし憎らしいが、だからと言って殴ったり殺していいわけはない。映画だから許される、ということも断じてない。

「子供の死」という描写は観ているものの心をえぐる。だからこそ、何かを表現する方法のひとつとして「子供を殺す」という手段は、芸術の不文律として絶対にNGだったはずだ。
ハリウッドでもどこでも、みんなそれを守っていた。しかしここ数年だろうか。作品の根幹に関わらない部分で子供が傷つけられる描写を目にするようになったのは。

社会に生きる大人として、子供は常に守るべき対象だ。
それがどんなに生意気だからといって、よしんば重大な犯罪を犯したからといって、傷つけたり処罰していいものではない。

どこからを「大人」とみなすかは難しい問題だが、少なくとも中学生くらいはまだ子供だろう。

例えば敵の残酷さを際だたせるために、例えば悲しみを一層増幅させるために、子供を傷つけるという表現方法しか取れないような監督は、三流以下だと断言したい。

AKB48とファンの関係に見る、新たなプラトニック・ラブと美のイデア

AKB48とファンの関係を揶揄する人は多いが、個人的にはとても高潔だと感じている。
突き詰めていけば行くほど、新世代のプラトニック・ラブ(=プラトン的な愛)を垣間見ずにはいられない。

AKB48には、有名な「恋愛禁止」のきまりがある。これは鉄の掟とも言われ、破ると丸坊主にされたり、解雇されることもあるほどだ。

そしてこれは、大きな矛盾を孕んでいる。
ファンはどんなにAKB48が好きでも、彼女たちと交際や結婚をすることは不可能なのだ。

彼らがお互いに供給しているのは、一方はファンとして金銭や時間を供給するという支援であり、一方はその支援を受け、スターとして日の当たる場所で存在するという状態である。
そこには、男女間の恋愛関係やセックスは介在できない。愛情の究極の形が交際や結婚、セックスではないという、現代の一般的な常識から見て真逆の関係性である。

ただこの関係は、10代や20代の健全な男女にとってはあまり健康的とはいえない。
その頃は大いに恋愛をすべきであるし、時に理解することが難しい、異性の考え方を知る絶好の機会である。そして、将来的なパートナーを見つけるという意味でも、貴重な時間だ。いわゆる性欲の強さだって、おそらく人生のうちで最大のピークである。

仏の道に入っているはずの寺の坊主でも、結婚しセックスをして、税金を納めずにベンツを乗り回すこのご時世、性的交友を完全に排除して生きていくのは、不可能であると言い切れよう。

では彼らはどうすべきなのか。
そこで登場するのが、プラトンである。

有名な「プラトニック・ラブ」。
これは一般的には、結婚するまで婚前交渉をしないという意味に捉えられているが、実際には「精神的な愛」の究極を説いたものである。
「外見に惹かれる愛よりも精神に惹かれる愛の方が優れている」ということが真の意味であり、更に優れているのは、「誰か一人を愛することではなく、愛するということ自体に価値を見出すこと」だと説き、それこそは「美のイデア」であると説いた。

そんなプラトン自身は、(当時としては珍しくないが)ガチのペドフィリア(小児性愛者、しかも男児)である。一部では、この「美のイデア」論は、彼の嗜好を正当化するための言い訳ではないかと批判されることもある。

それに比べて、AKB48ファンはどうだ。
彼らは愛することに価値を見出すどころか、あらゆる資産を擲ってまで相手を愛することができる。
自分たちの財産を費やし、肉体的な快楽を求めることを拒否し、ただただ頑なに推しメンを支援するその姿こそは、ある意味で、プラトンの理想を超えた、自己犠牲をも内包される、誠に称賛すべき愛を具現化しているといえるのではないだろうか。

だからこそ、彼女たちが掟を破ることは理想に対する「裏切り」であり、行き過ぎた愛情が行き場を失った際に多々発露する、恨みという感情に変化するのだろう。

その痛みはとてもわかる。しかし前述のように、現代社会においては、セックスを抜きにして生きていくことは不可能なのである。

きっとそこには恋愛やセックスなど存在しない。たとえAKB48が、AK-47よろしく、激しいピストン運動をしていたとしても、それはあくまで「イデアが創りだした虚像」であり、真の意味では存在しないのだという境地に達した者のみが、本当のファンといえるのではなかろうか。

まぁ、イデアって言いたかっただけなんだけど。

當山奈央がやはりとてつもないヴォーカリストだった件

Addy」というインディーズユニットに、當山奈央というヴォーカリストがいる。私は個人的に彼女の大ファンである。

初めて聞いたのは、彼女たちがまだ「COLOR」というアイドルグループであった頃、デビュー曲である『DOUBLE OR NOTHING』があるドラマのテーマ曲であったことから、CDを譲ってもらい聞いたのがきっかけだった。

歌って踊れる4人組の女の子という点では、当時流行していた「SPEED」の二番煎じであることは明らかだったが、確かに歌はうまいなぁとおぼろげに感じていた。
特に抑えられた低音の声は当時としては珍しく、のちにまだ中学生だったと知ったときは、その割にはすごい歌唱力だなと驚いたものだ。

それ以降10年以上もの間、彼女たちの存在や活動は知らなかったのだが、ふとしたきっかけで『鯨』という曲を見かけ、その歌声にすっかり魅了されてしまった。




そこから彼女たちの歴史を調べてみると、COLORはやはりブレイクと言えるには至らず、追加メンバーを加え「Buzy」と改名したものの、アルバム一枚のみであえなく解散。
同時期には「BEE-HIVE」というアイドルグループにもいたそうだが、そこには今や大人気の「Perfume」もいて、残念ながらセールス面でははっきりと明暗が別れる結果となってしまった。

その後メンバーはバラバラになり、當山奈央はヴォーカリストとして「Addy」に参加。私はそのファーストアルバムを楽しみにしていたのだが、発表された『Futures
』は、正直期待していた出来ではなかった。
彼女の持ち味である、伸びやかで声量のある、粘り気のある声がまったく活かされておらず、ただ高いトーンでがなり立てているように(あくまで私には)感じてしまったからだ。

もうあの當山奈央は復活しないかな……と半ば諦めかけてもいたが、先日発売されたセカンドアルバム『ZIG-ZAG
』でその懸念が一気に払拭された。
彼女のパワフルな歌声は終わるどころか更に進化しており、声だけで圧倒されるようなレベルにまで達していた。
特に3曲目の『Afterglow』は快作であるように思う。

彼女にかぎらず、実力のあるミュージシャンは国内にも大勢いる。しかしその実力とセールスの反比例が一向に修正されないのが日本の音楽業界だと思う。

ただでさえ音楽市場が寂れてしまっている昨今、このような稀有な才能がいることを是非知っていただきたく、記事にしてみました。
音楽の好みは人それぞれなのは承知の上ですが、少しでもご興味があればぜひ聞いてみてください。

保護主義に走り過ぎると、日本文化が衰退する

韓流ブームとそれに対する抗議活動に関して何か書くのが流行っているようなので、私もちょっと乗ってみることにする。

抗議活動の要旨をまとめると「公共性を持った放送局の、ある特定分野(今回は韓流)の偏向報道がすぎる」だと思われる。
放送局は電波法に守られた公共性の高い組織だ。「民放」などと言っているが、成り立ちから見ても経営体質から見ても、民間でもなんでもない。だからこそ、特定の思想や偏った一方通行の放送を行うことは許されないし、「嫌なら観なければいい」という論理も通用しない。

そしてそのすべてを加味した上でも、今回のデモはかなり末期かなと思う。
根底にあるのが「韓国が嫌い」ではなく、「このままではマズイ」とか「日本文化が負けてしまう」ではないかという気がするからだ。

あまり詳しくないし、芸能の専門家でもないが、私は特にKARAや少女時代が歌やダンスがうまいとは思わない。
しかし国内である一定程度以上の売上(=結果)を残しているのは事実で、韓国の俳優が次々に来日して話題づくりしていることもしかり。これがテレビやマスコミや広告代理店が意図的に作り上げたいブームだとしても、流行ってしまったらそれは関係ない。

例えばこれがリ押しだったとしても、日本人としてはやはり文化で対抗するのが本筋じゃないのかなと思う。「韓国がKARAなら、日本には○○がいる」と。実際10年前なら「何か韓国で流行ってるけど、これだったら日本の○○の方が上だろ」と、軽くいなしていたのではないだろうか。
そういう発想には至らず、放送するな、ゴリ押しするな、日本文化を守ろうと保護主義に走ってしまうのは、かなりマズイ状況なのではないかなと思う。

また、彼らのうちの多くは驚くべき速さで日本語をマスターし、英語が堪能な人も多い(日本語がカタコトなのはアグネス・チャン戦法(=わざと)かもしれないが)。
日本の芸能人もそうすれば、それこそSMAPの草なぎさんみたいに韓国語をマスターして殴りこみをかければいいんじゃないか。そういうと、多くの人が「そこまではしたくない・する必要がない」というだろう。その時点で、韓国を下に見ているという驕りではないだろうか。

韓国は日本より下。文化も下だから入って来るな。

これは残念なことだと思うのだが、日本にも多くの才能にあふれた人々がいるにもかかわらず、人気と地位を勝ち取るのはAKBやジャニーズといった、正直実力があるとはとても言えない若年層アイドルだ。
我々は「日本にはAKBがいるじゃないか」と胸を張って言えるだろうか。今回のデモは、日本人自身が日本文化に自信が持てなくなったことの裏返しでは、という気がしている。

私は、日本人が国内の殻に閉じこもっているようでは、文化も経済も衰退していくと思っている。だから、基本的には移民政策にも賛成の立場だ。
実際にSamsungやHyundaiといった企業はもう世界のトップだ。逆に日本企業はジリジリと後退し始めている。

発展するには競争するしかない。
視野を国内にしか向けていないようでは、あっという間に取り残される時代ではないだろうか。