AKB48とファンの関係に見る、新たなプラトニック・ラブと美のイデア

AKB48とファンの関係を揶揄する人は多いが、個人的にはとても高潔だと感じている。
突き詰めていけば行くほど、新世代のプラトニック・ラブ(=プラトン的な愛)を垣間見ずにはいられない。

AKB48には、有名な「恋愛禁止」のきまりがある。これは鉄の掟とも言われ、破ると丸坊主にされたり、解雇されることもあるほどだ。

そしてこれは、大きな矛盾を孕んでいる。
ファンはどんなにAKB48が好きでも、彼女たちと交際や結婚をすることは不可能なのだ。

彼らがお互いに供給しているのは、一方はファンとして金銭や時間を供給するという支援であり、一方はその支援を受け、スターとして日の当たる場所で存在するという状態である。
そこには、男女間の恋愛関係やセックスは介在できない。愛情の究極の形が交際や結婚、セックスではないという、現代の一般的な常識から見て真逆の関係性である。

ただこの関係は、10代や20代の健全な男女にとってはあまり健康的とはいえない。
その頃は大いに恋愛をすべきであるし、時に理解することが難しい、異性の考え方を知る絶好の機会である。そして、将来的なパートナーを見つけるという意味でも、貴重な時間だ。いわゆる性欲の強さだって、おそらく人生のうちで最大のピークである。

仏の道に入っているはずの寺の坊主でも、結婚しセックスをして、税金を納めずにベンツを乗り回すこのご時世、性的交友を完全に排除して生きていくのは、不可能であると言い切れよう。

では彼らはどうすべきなのか。
そこで登場するのが、プラトンである。

有名な「プラトニック・ラブ」。
これは一般的には、結婚するまで婚前交渉をしないという意味に捉えられているが、実際には「精神的な愛」の究極を説いたものである。
「外見に惹かれる愛よりも精神に惹かれる愛の方が優れている」ということが真の意味であり、更に優れているのは、「誰か一人を愛することではなく、愛するということ自体に価値を見出すこと」だと説き、それこそは「美のイデア」であると説いた。

そんなプラトン自身は、(当時としては珍しくないが)ガチのペドフィリア(小児性愛者、しかも男児)である。一部では、この「美のイデア」論は、彼の嗜好を正当化するための言い訳ではないかと批判されることもある。

それに比べて、AKB48ファンはどうだ。
彼らは愛することに価値を見出すどころか、あらゆる資産を擲ってまで相手を愛することができる。
自分たちの財産を費やし、肉体的な快楽を求めることを拒否し、ただただ頑なに推しメンを支援するその姿こそは、ある意味で、プラトンの理想を超えた、自己犠牲をも内包される、誠に称賛すべき愛を具現化しているといえるのではないだろうか。

だからこそ、彼女たちが掟を破ることは理想に対する「裏切り」であり、行き過ぎた愛情が行き場を失った際に多々発露する、恨みという感情に変化するのだろう。

その痛みはとてもわかる。しかし前述のように、現代社会においては、セックスを抜きにして生きていくことは不可能なのである。

きっとそこには恋愛やセックスなど存在しない。たとえAKB48が、AK-47よろしく、激しいピストン運動をしていたとしても、それはあくまで「イデアが創りだした虚像」であり、真の意味では存在しないのだという境地に達した者のみが、本当のファンといえるのではなかろうか。

まぁ、イデアって言いたかっただけなんだけど。