「職場にイケメンが必要」は「女は顔」と同義

Yahoo!にステマ業者認定されたことでお馴染みのマイナビニュースが、今度は炎上商法に打って出ようというのか、また香ばしい記事を掲載していた。
「職場にイケメンが必要」と回答した女性会社員は83.7%

中身は取るに足らないことながら、ネット上の反応はほぼ一様で「逆差別」「男女逆だったらとんでもないことになってる」というものである。

たしかに、男女逆だったらとんでもないことになるだろう。しかし今のところ、そうはなっていない。おそらく多くの女性が面白おかしくこの話題を口にし、多くの男性がこれを自虐ネタとして女性と会話しているはずだ。

こういう話題が出る度に思うのは、男性の見た目の美醜は、酒の肴としてそこそこ楽しめるネタであるけども、女性のそれは決して触れてはならないものであるという裏返しの事実だ。「職場にはカワイイ子が必要」という記事を社内メールで「FYI」とかつけて送ったら、その男性社員は確実に村八分にされる。アメリカなら解雇されるだろう。

そして興味深いのは、すべての女性はそれ、すなわち「女性の見た目の美醜は、男性より重要な問題である」と、確実に認識している点である。この記事を面白おかしく語る女性は、男だから笑えるのであって私たちには言うなよ、と暗喩しているのだ(もちろん、相手が傷つくとか、自分が言われたら嫌だといった理由で決して口にしない人も多い)。

今後、性意識が進んでこういった話題は公には語られなくなるだろうが、少なくとも現時点での日本では、それがマジョリティだろう。

テレビ業界に才能が集まるのはもったいないという話

日本において、テレビは未だに最も大きな力を持ったメディアであり、しばらくそれは揺るがないだろう。少なくとも、あと20年くらいは続くように思う。

それゆえ、その門は大変狭く、高い学歴と優れた成績、もしくは強力なコネでも有していないとくぐることは難しい。華やかで、常に憧憬の眼差しを浴びるその世界に、多くの、特にエンターテイメントを志す才能が向かおうとする。

それは自然な流れだが、しかし最近、そんな兆候をちょっと「もったいない」と思うようになった。理由は、その消費メディア的特性と、ビジネスの対象が日本国内に限られている点の2つだ。

テレビ番組1本にかけられる予算は、他とは比べようもないほど膨大だ。わずか1時間に億単位のマネーが投資され、大勢の人が関わる。

しかしそんな多くのお金と時間をかけた作品が、決まった時間にテレビの前にいないと原則的には二度と見ることができない、というのはあまりに時代に逆行しすぎていないか。素晴らしい作品は、誰にも平等に見られるチャンスを与えるべきだろう。

テレビ界には、一瞬の娯楽として消費されるにはあまりにもったいないほど多くの力が集まっているはずだし、その流れに大量の才能が汲みいられるのは損失でさえあるように思う。高い能力のある人には、繰り返し見る価値のある作品を集中して作る環境が与えられるべきではないだろうか。

そして、そのインターナルな特性だ。日本という国の生産力が弱まるのが確実な状況で、国内にとどまっているビジネスの寿命は長くない。

特に、最近のテレビ番組は内にこもりがちなものが多い。「日本ってすげー」的なアレだ。そのような書籍も多く売れているし、これは世相を、残念ながら日本の国力が弱まっているという世相を映したものかもしれないが、しかしせっかくの多くの才能が、日本礼賛を日本国民だけに発信して終わってしまうのは、本当に余計なお世話だが、もったいないという感情しかない。優秀な人間は、もっと外を知り長所を取り入れるべきだし、もし日本が素晴らしいのだとしたら、それを外に向けて発信すべきだ。東大を、早稲田を、慶応を出たエリートが、自分で自分をすごいと言って内輪で安心しててどうする。

だからインターネットは優れている、テレビ行く奴はバカ、などとは思ってない。むしろ、映像とITはとても相性がいいものだ。「テレビ vs ネット」などと妙に敵対視する人がいるが、それはあまりに浅はかであり、テレビはもっとITを利用すべきなのだ。

そのためにはITの世界にも多くの豊かな才能に来て欲しいと思うし、多くの才能が輝くために何かできることはないかと考える。

可視化されたのはバカではなく、義憤に燃えた人たちではないか

「バカが可視化される時代」とどう向き合うか
「うちら」の世界

この二つの記事の「バカをやっちゃう人」については、ほぼ同意見だ。彼らは昔から一定数以上いたし、これからもいつづける。
視野範囲は狭く、ネットに顔写真を載せることの本質をきちんと理解していない。リアルで干渉されないのに、なぜネットではこんなに袋叩きに遭うのか、その感覚もよく分からないだろう。

そういう意味で「バカが可視化した」というのは確かにその通りだけど、おそらく、もっと明確に我々の目の前に現れた、今まであまり見えなかった人種というのは、「義憤に燃えた匿名の人たち」ではないだろうか。

夏の暑い日、客がいないコンビニで、店員が悪ふざけでアイスのケースに入っていたところを偶然目撃してしまった。
見てみないフリをする人もいれば、不快感で店を飛び出す人もいるだろう。中には、バカだなぁ~、と思わず笑ってしまう人もいるのではなかろうか。

しかし、その場で激怒して猛抗議し本社に電話までかける人は、感覚的にはそれほど多くないように思う。
なぜなら、その場を抑えた写真でも撮っていない限り証拠もなく、味方も皆無だからだ。店員が否定すればそれで終わってしまう。振り上げた拳をそっと振り下ろすのは、ちょっとした敗北感すらある。

その点でインターネットという装置は「義憤に燃える匿名者」にとって大変有利なものだ。

糾弾するための紛れもない証拠がある
怒れる自分は大勢側の人間である
悪いのは絶対的に相手であり自分には一分の非もない
名前も顔も晒すこともなく思う存分相手を攻撃できる

という好条件がそろっているのだから。

「悪いやつを成敗したい、批判したい、正義を振りかざしたい」という欲望、間違っていることを糾弾したいという欲求は誰もが持つだろう。そして、一部の人はその欲求レベルがとても強く、犯した過ちの大小に関わらず、相手を可能な限り不幸のどん底に陥れたいという欲望を持っている。これは、分かっているのにバカなことをやってしまう人たちと同じく、一定数以上存在するのだ。残念ながら。

私は、ネットはすべての現実社会を拡大する機能がついた装置だと思う。だから「バカだけが目立った」のではなくて、今までもそういった「糾弾する世間」というのはあったのだけど、それが非常にうまく機能するようになった、ということではないだろうか。

だから「バカやっちゃう人たち」や子供には、そのような「世間」の存在を説き、「何だかわからないけど、ネットでやらかすととにかく恐ろしいことになる(でも良いことをすればその逆にもなるよ)」と教えておく必要があるのかもしれない。

会社や学校をクビになり、下手したら自殺まで追い込んでもなお、嬉々とした快感を覚える人がいる。これはもう仕方ないのだ。躊躇もなく人を殺す人がいるのと同様、世の中にはそういう類の人がいる。残念ながら。

では、誰もがこういった発信力を身につけた今後の社会は、一体どうなるだろう。あらゆることが規制され、ガチガチの生きにくい社会が出来上がるだろうか。

私は、結論からすると「慣れる」だろうと思う。
人間の「慣れ」耐性はなかなか恐ろしいものがある。飛行機だってネットだって、少し前ならとても信じられない代物なのに、我々はもうそれがなくては生活できない。

今までは「近所のバカ」だった人が、「ネットのバカ、世界に公開したバカ(褒め言葉)」になるだけで、なくなることはない。社会的な糾弾もそれなりに受けることだろう。しかしそれが当たり前になると、世間はあっという間に飽きて「またか。まぁそういう人もいるよね」程度の状況になるのではなかろうか。
だって、コンビニの冷蔵庫に入るくらい、別に大したことじゃないでしょ?

デマを信じさせ、上手に拡散させる方法

twitterやfacebook、いわゆる「ソーシャルメディア」の発達で、誰もが簡単に情報を発信できる時代となった。
とっておきのネタや、手に入れた特ダネを披露して、他人に承認されるのはとても気分がいい。

たとえそれに信ぴょう性がなかったり、仮にまったくのウソだったとしても、自分の承認欲求には代えられない。

そこで今日は、デマをうまく信じてもらうための方法をまとめてみた。

当然のごとく語る

最も簡単なのが、このまるで常識のように語る手口。
さも当たり前のごとく断言すれば、情報ソースを提供する必要もない。

受け取った側に「こんなことも知らないなんて恥ずかしい」と思わせたらもう勝ちである。

「○○が△△教の信者っていうのは、有名な話だからな」
「まぁXXが体に悪いのは、誰でも知ってると思うけど」

有名人の名前を出す

情報に信ぴょう性を持たせるために、有名人の名前を出すというのは最もポピュラーな方法だ。
この場合「その人がいかにも言いそうなこと」であると効果はさらに高まる。

「この間ドコモの部長が講演で言ってたけど、iPhoneは今年中に出るらしい」

最近では、twitterでRTさせるという手もある。名のある有名人がRTしたとなれば、その情報に箔が付くことはうけあいだ。
「福島小学生が原発放射線で死亡」 坂本龍一ツイッターでデマ「拡散」

別の情報を否定する

まず否定から入り、信ぴょう性を持たせるパターン。
否定される情報もデマで構わないため、かなり簡単に効果を最大化できる。

「○○が前科者だっていうのはデマ。実際はその友人の△△」

最初の情報をあえて大げさにし、信じやすくさせるという技術もある。

「○○病院が急患を30人診断拒否したってのはデマ。本当は5人」

混乱に乗じる

最近では、東日本大震災後によく見られた手法。
みなが正確な情報を求めている時に、それらしいことを発信すれば、信じてもらえる可能性が高くなる。

「イソジンを飲むと、放射能対策になる」
「総務省の幹部はもう全員九州に避難している」

いかがでしたか?
これらを駆使して、うまく承認欲求を満たしましょう。

ただ、ネットの世界は匿名だけど、本気で調べようと思えばできちゃうから、くれぐれも気をつけましょうね。

「一生懸命働く俺より貧しくいろ」問題について

お笑い芸人の河本さんの親族が、生活保護を不正に受給したという件が世間を賑わせている。
それが果たして不正だったのかどうかは知らないが、少なくとも、感情的な問題の範囲を出ないように思われる。

それにしても、どうしてこれほどまでに多くの人が「河本憎し」となったのだろうか。

ひとつの大きな理由は、日本の経済的な弱体化だろう。

生活保護は税金であり、それを不正に受給することは明確な犯罪である。しかし現状は、その犯罪に対してみなが異常とも言える監視の目を光らせている。

これは紛れもなく「頑張っている自分と同等の生活をする人間許すまじ」という感情であり、弱者が弱者を妬み、嫉む、完全な負の連鎖だ。

ある人が生活保護を受けていると聞いて「自分たちはせめて健康に働ける。もっといい生活になれるよう頑張ろう」と考えるのが健康的な社会だが、今は違う。「それは不正ではないか」と疑い、すきあらば糾弾しようとする。

しかしそれは個人を責めるべき話ではない。いくら一生懸命働いても生活保護程度の賃金しか得られず、将来に渡って明るい見通しすらない現実が重くのしかかっていることが大きい。社会を、国を、そして自分自身をより富めるものにしていこう、という発想になる余裕がないのだ。

そしてもうひとつの大きな理由は、生活保護への無理解だろう。

マスコミの偏向報道のお陰で多くの人が「不正に」受給しているかのような錯覚に陥るが、実際にはその割合は0.4~0.6%程度と言われ、たとえそれが氷山の一角であったとしても、ほとんどが不正だとは考えにくい。

それよりも、むしろ本当に受給すべき人たちができない問題のほうがはるかに根深い。
障害を抱える家族をもつ家庭、肉体的・精神的疾患を持つ人はもちろん、特に現在は母子家庭の貧困が非常に大きな問題となっている(こちらの書籍に詳しい)。

そしてその無理解を示す端緒な例は、日本最大のポータルサイト「ヤフーニュース」において(記事公開時点で)もっとも多くの「そう思う」を集めている以下のコメントだ。

生活保護の審査をもっと厳しろ。年金より生活保護のほうが裕福なんて矛盾している。今のままだと税金や年金なんて払いたくない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120525-00000022-dal-ent

年金制度と生活保護というまったく種類の異なる、ただ「お金がもらえる」という点しか共通しない福祉政策を比べ、生活保護を叩く。これはおそらく「年金は、たとえ少なくてもいつかはもらえる」からだろう。
破綻することが火を見るより明らかな年金制度は後回しで、目についた生活保護を叩く現状は、とても刹那的で貧しい。

「一生懸命働く俺より貧しくいろ」という要求を解決するためにはどうすべきだろうか。
それには「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と謳う憲法25条を改正して生活保護を廃止するか、その水準を引き下げるしかない。
そしてその動きはもう始まっている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120525-00000108-mai-pol

生活保護の金額が下がることで、日本経済はますます弱体化していくだろう。これはデフレとイコールだからだ。
先に上げた年金制度の他にも高齢者医療制度など、見直すべき福祉制度は他に無数にあるというのに。

もちろん、国の福祉政策はその時の財政状況に応じて変化すべきだ。しかし、それでも生活保護という制度を断ってはならない。

生活保護が打ち切られて餓死するような人が次々に現れることが、どれだけ恐ろしいか。
誰もが生きるのに必死だ。どうせ死ぬのなら、富める者から財産を奪おうとするだろう。日本がそんな社会になるかもしれないことに、想像が及ばないのだろうか。