死者数ばかりに目が行く自分に自戒を込めて

以下、自分のことを棚にあげて言います。

この未曽有の危機の中、テレビで報道されるのは「死者・行方不明者の数が何人に達した」「原発から放射能漏れの危険」ばかり。
自分も含め、こんな時はついネガティブな情報に目が行きがちになる。目に見えてショッキングだからだろう。

しかし、これだけ横並びで同じような報道ばかりしているのなら、民放のひとつくらいは被災者の方向けに情報を流したらどうだろうか。

自衛隊は今どこに向かっています、いつ頃までに物資が届きます、各企業が身を削って支援を表明しています。
それらは寒さに震える被災者の方に伝わっているのだろうか。テレビやラジオが見られない、というのは別として。

そもそも、ミッシングリストを放送しているのだって、教育テレビだけじゃないか。
被災者や関係者が今一番知りたいのは、身内の安否だろう。

不安に押しつぶされながら、今も助けを待っている人たちがいる。
その人達を救うべく、昼夜を問わずに命がけで立ち向かう人達がいる。

既に16,000人の方が救出されたこと、100以上の国と地域から支援の申し入れがあること、それを知っている人はどれだけいるのか。それがどれだけ被災者の方の希望になるか。
このたった一枚の写真が、どれだけの人を笑顔にさせるだろう。

たとえ福島原発がメルトダウンしたってチェルノブイリ事故のようにはならないことを、むしろその後の電力供給不足に対する懸念のほうがはるかに大きいことを、どうして報道しないのか。どうして不安ばかり煽るのか。こんな時でも、考えるのは視聴率のことばかりなのか。CMだってないのに。

それができないなら、民放局こそ輪番停電してほしい。

「すきま時間」の奪い合いからWebビジネスを考える

娯楽に関するWebビジネスについて「すきま時間をいかに奪うか」をキーに考えてみた。

テレビ、新聞、ラジオなどの旧来のメディアも、基本的には暇な時間をいかに奪うかが目的であった。
昔、皆が巨人戦をテレビの前で観戦したのは、野球中継しか娯楽がなかったからとも言える。バラエティ番組もしかり。

しかし今はその可処分時間に対してネットというライバルが現れた。ブログ、SNS、twitterなど、人々はすきま時間に新たな娯楽を覚えたのだ。

そういった意味では、モバイル端末はまさに格好のデバイスだ。移動中、就寝前、休憩時間など、肌身離さず持ち歩くこの端末には、まだ様々な可能性が眠っているだろう。

今や社会現象ともなった「ソーシャルゲーム」も、ゲームとして見れば非常に単純なものばかり。いわゆる「ゲーマー」達が「クリックゲー(クリックするだけの単純なゲーム)」と揶揄するものである。
例えばPCゲームの歴史を紐解くと、このクリックゲーは極端に嫌われた。PCでゲームをするようなゲーマーには、あまりにも物足りないからである。ゲーム開発者たちは、ゲームシステムをより複雑に、グラフィックをより洗練させることでユーザを満足させようとした。

しかし多くのマジョリティには、その複雑さは到底受け入れがたいものだった。結果、誰にでもできるほど単純で、暇な時間を埋められる「クリックゲー」が賛辞をもって迎え入れられたのだ。

ただそのクリックゲーも、家に帰ってリビングでやる人は多くないと考えられる。PCやテレビ、その他多くの魅力的な娯楽に対し、その手軽さは一気に「いつでも出来るもの」に格下げされてしまうからだ。

YouTubeやニコニコ動画などの動画コンテンツもしかり。PCも含め、小さな端末で見るのに2時間の映画は適さない。2、3分、長くて10分程度の面白く手軽な動画を求めて、人々は端末を操る。
旧来型の考えに凝り固まっていると、いかにして映画やテレビなどの旧来のソフトをネット経由で見せるかにこだわってしまう。もちろんそれも将来的に大事だが、今この瞬間に求められているのはもっと手軽に見られるメディアであり、ソフトなのだ。

それでも、ソーシャルゲームやニコニコ動画をやらない人もまだまだ多い。この次に来るものは、果たしてなんだろうか。

手軽、短時間、暇つぶし

これらをキーワードにして考えると、次の波が生み出せるかもしれない。

自分を型にはめすぎるな

最近「○○系男子(女子)」とか「□□型人間」とか、とにかく人間を型にはめる表現が多い。
これはメディアや広告代理店の戦略であり、かつ最近始まったことでも何でもないんだけど、個人的にはいい加減いいんじゃないか、と思ってしまう。

人は、とかく自分たちを「分類」するのが好きだ。
典型的なのが血液型で性格を判別すること。代表的なものだと、

A型:神経質
B型:マイペース
O型:おっとり
AB型:二重人格

といったところか。
ちょっと考えれば分かることだが、こういった性格は「誰でも持っている要素」である。
「A型は神経質」というのが一般化されているため、本当に自分が神経質だと思い込んでいる人までいるが、仮に「A型はおっとり」と入れ替わったとしても、当人はそのように認識するだろう。誰でも二重人格な面もあれば、マイペースな部分もある。人はそんなに単純じゃないはずだ。

人間には「所属欲求」というものがあると言われる。
これは、自分のアイデンティティを示したり明確にしたいための、肩書きや集団への帰属欲求など。
この「集団への所属の証」は、安心につながる。「自分は人と違う」という認識は、時に人を不安にするものだ。

しかし、これがあまり過ぎると良くない。

人間本来や、人生に立ちはだかるものはもっと複雑であるのに、安心感を得るためだけに物事を不必要に体系化、単純化してしまう。やれ草食だ、やれ文系だ、やれ右脳型だと。

別に他人に対しては構わない。「あの人は草食系だよな」と思うくらい、どうってことはない。

しかし自分にあてはめるのはやめた方がいい。「オレは草食系男子だから……」みたいな。
なぜなら、その後に続くのは否定語がほとんどだからだ。

「オレはオタクだから仕方ないんだ」「もう××歳だから遅すぎるんだ」
これは冷静に自己分析しているようで、本当は欲しているのに、勝手に自分で限界を作って、言い訳の材料として一般論を持ち出しているだけだ。型にはめることで安心して、それ以上の思考を停止してしまっている。

そもそも、本当に不可能だと思っていることを、人は欲しない。
例えば野球の未経験者が、40歳になって一から野球を始めて大リーグで首位打者になろうと考えるか?
迷ってる時点で、そこには可能性があると、少なくとも自分はそう思っているはずだ。

そして、一般的に成功していると言われる人は、こういった志向が少ない。自分を「○○系」とか「△△型人間」にあてはめないし、そうすることを嫌う。例えば堀江貴文氏のこの発言

これは、あまり型にはめてしまうと、自分を解放できなくなってしまうからだろう。他でもない自分自身に限界を作って、いいことなんてあるはずがない。

前述のように安心感をもたらすことも確かにある。それに、これを貫くには強靭な精神力がいる。
だから「自分は今、型にはまってないかな」とたまに意識できるようになりたいところ。

ちょっと本題とずれてしまうけど、イギリスのジャーナリストで思想家、ウォルター・バジョットの名言を最後に記して、説教モードを終了としたい(汗

The greatest pleasure in life is doing what people say you can’t do.
「人生における最大の喜びは、他人が『君には無理だ』ということを成し遂げることだ」

『漫画家』とは、才能の塊である

私は漫画を全く読まない。
しかし『漫画家』というものが、とてつもない才能の塊であるということは知っている。
彼らは、特にエンターテイメントの世界で必要とされる数多くの要素を同時に満たす、稀有な存在だ。

1:絵が描ける

もちろん個人差もあるだろうが、漫画家は絵がうまい。
これだけでも、イラストレーターや挿絵ライター、もしくは単純に画家という職業にも就けるかもしれない。絵がうまいというのは、それだけでも食っていける能力だが、漫画家にとってはそれは最低限の前提に過ぎない。

2:ドラマを作り、セリフが書ける

稀に原作者が別の場合もあるが、多くの漫画家はストーリーも自分で考える。これは、映画製作でいえば「脚本家」の仕事であり、彼らは当然それしかしない。
また、そのクオリティも非常に高い。これは、多くの漫画作品がTVドラマのネタ元になっていることからも分かる。
現在の日本のTVドラマは、オリジナル物はとかく敬遠され、漫画などのいわゆる「原作もの」でないと企画が通らないとさえ言われる。それが、同業界のレベルの低下に至ったわけだが。

3:コマ割りができる

今や世界中に多くのファンをもつ北野武監督は、自身の映画のコマ割りを考える際、日本の漫画を参考にするという。
映画(も漫画も)は、あくまで平面的な世界なので、四角い画面に映っているものがすべてだ。
限られた枠の中に何を見せ、何を見せないか。場所(ロケーション)や時間帯、季節、天気、大道具・小道具の配置…… それらをすべて考慮し、シーンを立体的に俯瞰で捉えることができる能力が必要である。
映画製作の現場では、これを専門で行う「撮影監督」という職種すらある。

全体を映した後に顔のアップ、次に手のアップ、小物の動き…… 観客を飽きさせないためには、コマ割りは非常に大事な要素だ。すべての漫画家がこれらを意識しているかどうかは分からないが、実際非常に高度な能力が要求されることは間違いない。

4:演出ができる

セリフの内容だけではなく、それをどんな表情で言うのか。その時どんな心情なのか。それまでどんな経緯があったから、その行動につながっているのか。
すべてのキャラクターの行動には意味があり、それに反応したアクションを起こす。それをすべて理解し、どうすればもっとも観客に伝わるかを考える時、演出家が必要になってくる。

言うまでもなく、これは映画でいう監督の仕事だ。
カメラ位置やセリフだけではなく、感情の機微や細かい所作まで頭の中に描き、作品全体に責任を持てなけなければ、この仕事は行えない。

当然単純に比較することはできないが、『漫画家』といわれる人は、これらの能力を高い水準で保持しており、おそらくどれに特化してもプロフェッショナルとして活躍できるだろう。
一部の突出した人気作家だけではなく、プロとして漫画を描く人には、これらの能力が満遍なく備わっているはずだ。

しかし、日本の漫画家の方たちの境遇は、お世辞にもいいものとは言えないように思う。
週刊連載に追われ、出版社や放送局の割の合わない中間搾取と戦い、人気がでたらでたで本意でないストーリーを延々と描き続ける。まるで、命をすり減らして描き続けているようにさえ見える。

市場規模の問題もあるだろうが、この才能溢れる存在をおざなりにするのは、日本文化にとって好ましくないように思える。
ということで、ここまで言っておいて自分が読んでないのも恥ずかしいので、どなたかオススメの漫画を教えてください(違

孫さんのRTとチェーンメールとソーシャルメディア

先日、ソフトバンクの孫さんがTwitter上でRTした発言。

https://twitter.com/whatwashappened/status/9181337894

最初、「これって、チェーンメールでは…… 孫さんやっちゃったかな」と思ったのだが(リンク先に新聞記事があるので、ガセネタではないらしい)、よく考えてみるとTwitterのRT自体がチェーンメール(チェーンつぶやき?)的要素がある。
Twitterの登場で、その概念自体も変わってくるのかもしれない、と思い今一度考えてみた。

まずRTとは、Twitter上で気に入った発言を、他の人に見せるために行う行為で「ReTweet」の略である。当初はユーザの中から自然発生的にはじまったものだが、今では公式にサポートされるようになった。

そして、チェーンメールとは何か。
Wikipediaこちらのサイトによると、人それぞれ解釈はあるものの、自ら「知人に転送して」という情報は、すべてチェーンメールとなる。
たしかにTwitterのRTに近い。

数日前、こんなことも起こった。
「恋人捜して」 ツイッターの捜索願で騒動 警察は困惑

ここに出てくる登場人物たちは、みな善人だ。全員が行方不明の彼を心配し、行動を起こした。
実際、富士の樹海(!)で見つかったそうで、本当に深刻な状況だったのだろう。

しかし結果的には、警察の通常業務をさまたげてしまうという迷惑行為に発展してしまった。
そしてこれこそが、チェーンメールの弊害である。

「あえて言うなら、誰が一番悪いでしょう?」
となったら、直接の原因を作った「電話をかけた人」になるかもしれない。
しかし、必死で知人を探そうとした当人やTwitterにRTを投げた人に影響されたとも言える。
この程度でパンクする警察の電話回線、という意見もひょっとしたらあるかもしれない。

「Twitterでつぶやくのと、実際に電話するのでは大違い」という意見もあろうが、どんなにネットが一般的になろうとも、猪突猛進で突き進んじゃう人は絶対いるし、この問答を散々突き詰めて、強制力はないもののルール化したのが、RFCの「ネチケット」だったはずだ。

私は、ソーシャルメディアが新しい「メディア」のひとつになる日が来ると思う。まだ相当遠いけど。

そして、その形態は日々進化している。
例えば、1:1だったメールに比べ、1:数十万にもなりうるTwitterではその分散効果はまさにねずみ算式だ。それこそがTwitterのもつ力でもある。
しかし裏を返せば、何も考えず気軽にRTすればするほど、その情報の信頼性・有用性は薄れていき、Twitter、ひいてはソーシャルメディア全体がただの「ウサン臭いもの」に成り下がる。

この孫さんのRTにより、チェーンつぶやきはある程度市民権を得るだろう。「何で悪いの?」という人がたくさん出てくると思う。それもそうだ。インターネットのプロ中のプロがやっているんだから。

しかしソーシャルメディアの力を高めるのであれば、やはり使う人たちの「自分たちは既にメディアの発信側になっている」という自覚が必要だと思う。Twitterの力を信じるならなおさらだ。

結論:15年前のネチケットは、やっぱ正しいんじゃね?

「○○ちゃんが病気で苦しんでます!RTしてください!」
「Twitterで救える命がある!RTをお願いします!」
このようなネタを新聞に載せようとしたら、記者はまず、その真偽を確かめるために取材をするだろう。

それができない我々一般人はどうすべきか。
インターネットは誰もが接触可能な空間だ。そこに情報を吐き出すというのはどういう行為かを、今一度見直す方がよさそうに思える。

ちなみに、私はリンク先の少女とは知り合いではないので寄付はしませんが、もちろんこの活動自体を否定するものではありません。

「恋人捜して」 ツイッターの捜索願で騒動 警察は困惑