著名ブロガーさん(主にはてな界隈)たちの間で、ソーシャルゲームについて語るのが流行のようなので乗っかってみる。
「ソーシャルゲームへの批判」はむしろゲームの可能性を狭くしてないか?という懸念
「ソーシャルゲームはゲームじゃない」という言い方があるが、ビデオゲームの変化、そしてソーシャルゲームの成功は、ほぼ100%、課金システムの変容によると思われる。
PingPongから始まったビデオゲームは、ゲームセンターになり、家庭用ゲームとなり、ネットワーク対応して、(日本では)ケータイ端末が主戦場となった。
ネット以前は、筐体かソフトという「パッケージ」でしか販売できなかったものが、理論上、追加コンテンツを無限に発行できるようになったのだ。
工場もいらなければ、デパートに買いに行く必要もない。もっと言えば、パッケージだったらリコールになるようなバグがあっても、バッチをあてればそれで済んでしまう。これは非常に大きな変化である。
そしてここで「ケータイ料金と同時に引き落とされる」という仕組みが開発される。
国民全員が持つ端末から、ほとんど何も意識することなくお金が動く。これは、貨幣の流通という面で革命的に素晴らしいシステムである。
かくしてゲームメーカーは、この完成された、素晴らしい仕組みを手に入れた。
この時点でビデオゲームは「どんなものが面白い(=売れる)か」ではなく、「この課金システムに合ったものはどんなものか」に最適化されることとなった。
数十億円をかけ、当たるも八卦の大作を作っていたのは今や昔、少ない制作費でどれだけ「スキマ時間」の金を搾り取れるかが重要な戦略になってきたのだ。
ここで「そんなもの、オレが好きだったゲームじゃない!」と言い出してもどうしようもない。人間は経済活動に勤しまなければならないし、お金が儲かるところに人が集まるのは必然だ。
そして、ハードの「過剰な」進化も要因のひとつかもしれない。
現在の最新家庭用ゲーム機の操作性についていける人がもはや少数、ごくごく少数であることは認めるべき事実だろう。
大多数が許容できる操作性の限界は、ゲームウォッチやファミコン、ケータイゲームレベルであり、何も考えずにすむ、スカッとするゲームを人々は好む。
むしろ、それ以上のものをゲームに求めていない。もう誰が何と言おうが、大多数がそうなので仕方がない。
なので「ソーシャルゲームはゲームじゃない」というのは多分違くて、近代の流通システムと経済活動に沿って正しく進化してきた結果が今の「ビデオゲーム」の形なのだと思う。
だからこそ、昔を知っているゲーマーほど「昔はこんなものタダだった」感が強いし、作り手の「払わせよう払わせよう」が透けて見えると、すごく嫌な気持ちになるのだろう。
そんな中、たとえ経営的に厳しい状況に追い込まれても、あくまで自分たちの哲学を貫き通している任天堂などは好意的に受け止められるわけだ。
それこそが会社の経営的な戦略かもしれないけれども。
個人的には、グリーもモバゲーも好きではないし、逆日歩が発生するくらい空売りしているけども、いくら「こんなものはゲームじゃない」と言ってみたところで、それはゲーセンのゲーマーがファミコンに対しても言っていたし、やっぱり経済的な成功に抗うことは中々難しいのでは、と思った次第。