最近の映画において、「子供を殺す、または痛めつける」という表現方法が安易に用いられ始めたのが、すごく気にかかっている。
映画演出の不文律として「絶対に使ってはいけない」と叩きこまれていただけに、この兆候には戸惑いすら感じる。
例えば、『ミスト』という映画がある。
(以降、ネタバレを含みます)
舞台はある片田舎。
人が次々と死ぬ、得体の知れない霧(ミスト)が発生し、住民をパニックに陥れるという物語だ。
この作品では、ラストに主人公が自分の子供を殺す。
恐ろしい怪物に追われてすべての希望を失った主人公が、せめて最後に自分の手で、ということで子を殺める。
この映画自体は好きではない、というか嫌いだが、「子供の死」が物語の重要なファクターとなっているため、表現方法としては成り立っている。
よく似た内容で『ハプニング』という映画がある。
ある日突然原因不明の自殺が多発。人々は次々に理由もなくビルから飛び降り、銃口を頭に向け始める。
主人公は妻らを守りながら逃げる、という設定だ。
物語の中盤、主人公らは途中で出会った中学生くらいの子供たちと行動を共にするのだが、以下のようなシーンが有る。
・パニック状態の主人公たち。その時、かすかな望みとして小屋を発見。これで助かる!
・しかし、小屋の住人は疑心暗鬼状態で発砲。子供たちは死ぬ。
・助かることなどできない、と主人公たちは悟る。
この場合、この子たちの死には「この先どうなってしまうのだろう」という観客の不安を煽る効果しかない。それだけなら他にいくらでも方法があるにも関わらず、演出効果を上げるための道具として「子供の死」が使われているのだ。
もっと軽い例だと、『TED』というコメディ作品の中にも、襲い掛かってくる子供をあっさりとぶん殴る、というシーンがある。
これも「ひとつの笑い」として消化されるだけで、なくても成立するシーンだ。
『ハプニング』でも『TED』でも、登場する子供は確かに生意気だし憎らしいが、だからと言って殴ったり殺していいわけはない。映画だから許される、ということも断じてない。
「子供の死」という描写は観ているものの心をえぐる。だからこそ、何かを表現する方法のひとつとして「子供を殺す」という手段は、芸術の不文律として絶対にNGだったはずだ。
ハリウッドでもどこでも、みんなそれを守っていた。しかしここ数年だろうか。作品の根幹に関わらない部分で子供が傷つけられる描写を目にするようになったのは。
社会に生きる大人として、子供は常に守るべき対象だ。
それがどんなに生意気だからといって、よしんば重大な犯罪を犯したからといって、傷つけたり処罰していいものではない。
どこからを「大人」とみなすかは難しい問題だが、少なくとも中学生くらいはまだ子供だろう。
例えば敵の残酷さを際だたせるために、例えば悲しみを一層増幅させるために、子供を傷つけるという表現方法しか取れないような監督は、三流以下だと断言したい。