所属欲求を満たす最適な範囲とはどこなのか問題

ソチオリンピックが終わろうとしている。

特に日本では、浅田真央選手とキム・ヨナ選手の対決に注目が集まった。
結果はどうあれ、二人とも研ぎ澄まされたスペシャリストの技を見せてくれたのではないだろうか。

言うまでもなく、オリンピックは国別の争いだ。
特に複雑な事情でもない限り、世界中の人が自国の選手を応援するだろうし、それに疑問を持つこともない。

例えばこれが「大陸対抗」とか、「母国語対抗」とかだったらとか考えない。多分盛り上がらないし。

そして、イベントとしてのオリンピックの成功を見るにつけ、現代における最も快適な所属範囲は「国」なのかなと思う。

人間には「所属欲求」があり、どんなに孤独を好む人でも、社会の成員としてどこかの集団に所属していたいと望むものだという。
そしてこの所属欲求というのは、どこまでも小さくなれるものだ。

例えば地方出身者から見ると「東京出身」というだけで、これはもう紛うことなき「都会人」だろう。

しかしその東京出身者からすると、23区以外は注釈をつけないといけない雰囲気があり、23区でも東と西では大分温度差があるし、同じ世田谷区成城でも、やれ何丁目の方が格式があるだの、それこそきりがない。

「私は世田谷区成城に生まれ育ったことを誇りに思う!」という人がいたって別に問題はなさそうだが、最初の「国」に比べるとずいぶん小さい人間に見える。

しかし上述の通り、「私は日本国に生まれ育ったことを……」という人は小さいとは言われない。

逆に、人間はどこまで所属意識を拡大できるだろうか。

例えば明日、強力な宇宙人が攻めてきて、全世界の武力を結集して戦わなければいけないことになったら、多分みんな「俺達地球人!」という連帯感を持つだろう。そんなときに、ネトウヨだの何だの言ってられない。

自分が今どこに軸をおいて、どの範囲に所属する人間として発言しているかを意識すること。そして、その枠組にとらわれる必要が果たしてあるのかどうかは、常に考えておいて損はない気がする。

結論としては、ガンダムってやっぱすげーよな、ってことで(違

軽自動車のナンバープレートを白に変えれば、大きな経済効果があるのでは

昨今、優遇見直し論が活発な軽自動車。
それとは直接関係ないのだけど、軽自動車のナンバープレートの黄色、あれは意味があるのだろうか。

それまで白だった軽自動車のナンバープレートが黄色に変わったのは、1975年の排ガス規制法がきっかけだ。
環境保護が叫ばれ始めた社会情勢の中、軽自動車にも厳格な基準を設けるため、550cc(当時)の規制がかけられた。

その際、ナンバーが黄色になったのは、高速道路での普通自動車との違いがあったからだ。
・制限速度が異なっていた(80km)ため、視認による取り締まりを容易にするため
・料金が異なるため、料金所の係員がすぐ分かるように

しかし、制限速度の違いはもう撤廃されたし、料金もETCで支払うのが当たり前になっている。
それ以外に、道路上で普通自動車と軽自動車を見分けなければならないケースはあるだろうか。

税金の管理上、普通自動車と区別する必要があることは認めるが、それはどこかのデータベースでやればいいことで、普通自動車と軽自動車の違いを、公衆の面前に晒す必要はもはやないのではなかろうか。

私は車に疎いので、正直見た目だけで軽自動車と分からない車もある。
ナンバープレートが黄色だから「あぁ、これも軽なんだ」というのが結構ある。

日本人の「見た目を気にする気質」はバカにできないものがあって、黄色を白に変えるだけで、結構な経済効果があるのではとずっと思っている。

黄色ナンバーを気にして、軽自動車の購入を思いとどまっている人は相当数いるはず。
何か意味あるんでしょうかね。

可視化されたのはバカではなく、義憤に燃えた人たちではないか

「バカが可視化される時代」とどう向き合うか
「うちら」の世界

この二つの記事の「バカをやっちゃう人」については、ほぼ同意見だ。彼らは昔から一定数以上いたし、これからもいつづける。
視野範囲は狭く、ネットに顔写真を載せることの本質をきちんと理解していない。リアルで干渉されないのに、なぜネットではこんなに袋叩きに遭うのか、その感覚もよく分からないだろう。

そういう意味で「バカが可視化した」というのは確かにその通りだけど、おそらく、もっと明確に我々の目の前に現れた、今まであまり見えなかった人種というのは、「義憤に燃えた匿名の人たち」ではないだろうか。

夏の暑い日、客がいないコンビニで、店員が悪ふざけでアイスのケースに入っていたところを偶然目撃してしまった。
見てみないフリをする人もいれば、不快感で店を飛び出す人もいるだろう。中には、バカだなぁ~、と思わず笑ってしまう人もいるのではなかろうか。

しかし、その場で激怒して猛抗議し本社に電話までかける人は、感覚的にはそれほど多くないように思う。
なぜなら、その場を抑えた写真でも撮っていない限り証拠もなく、味方も皆無だからだ。店員が否定すればそれで終わってしまう。振り上げた拳をそっと振り下ろすのは、ちょっとした敗北感すらある。

その点でインターネットという装置は「義憤に燃える匿名者」にとって大変有利なものだ。

糾弾するための紛れもない証拠がある
怒れる自分は大勢側の人間である
悪いのは絶対的に相手であり自分には一分の非もない
名前も顔も晒すこともなく思う存分相手を攻撃できる

という好条件がそろっているのだから。

「悪いやつを成敗したい、批判したい、正義を振りかざしたい」という欲望、間違っていることを糾弾したいという欲求は誰もが持つだろう。そして、一部の人はその欲求レベルがとても強く、犯した過ちの大小に関わらず、相手を可能な限り不幸のどん底に陥れたいという欲望を持っている。これは、分かっているのにバカなことをやってしまう人たちと同じく、一定数以上存在するのだ。残念ながら。

私は、ネットはすべての現実社会を拡大する機能がついた装置だと思う。だから「バカだけが目立った」のではなくて、今までもそういった「糾弾する世間」というのはあったのだけど、それが非常にうまく機能するようになった、ということではないだろうか。

だから「バカやっちゃう人たち」や子供には、そのような「世間」の存在を説き、「何だかわからないけど、ネットでやらかすととにかく恐ろしいことになる(でも良いことをすればその逆にもなるよ)」と教えておく必要があるのかもしれない。

会社や学校をクビになり、下手したら自殺まで追い込んでもなお、嬉々とした快感を覚える人がいる。これはもう仕方ないのだ。躊躇もなく人を殺す人がいるのと同様、世の中にはそういう類の人がいる。残念ながら。

では、誰もがこういった発信力を身につけた今後の社会は、一体どうなるだろう。あらゆることが規制され、ガチガチの生きにくい社会が出来上がるだろうか。

私は、結論からすると「慣れる」だろうと思う。
人間の「慣れ」耐性はなかなか恐ろしいものがある。飛行機だってネットだって、少し前ならとても信じられない代物なのに、我々はもうそれがなくては生活できない。

今までは「近所のバカ」だった人が、「ネットのバカ、世界に公開したバカ(褒め言葉)」になるだけで、なくなることはない。社会的な糾弾もそれなりに受けることだろう。しかしそれが当たり前になると、世間はあっという間に飽きて「またか。まぁそういう人もいるよね」程度の状況になるのではなかろうか。
だって、コンビニの冷蔵庫に入るくらい、別に大したことじゃないでしょ?

向上心がない人の存在を認めて暮らすべき理由

ユニクロ、「世界同一賃金」導入へ 優秀な人材確保狙う

日本には最低賃金制度があるため、一定以下の給与に下がることはないだろうし、グローバル化を見据えれば納得できる施策である。
そもそも、一企業の賃金形態に難癖をつけることはできないし、それ自体には何も思うところはない。

しかし、いただけないのは以下の発言だ。

「年収100万円も仕方ない」ユニクロ柳井会長に聞く

「年収100万円」は極端な例えだろうが、発言の要旨をまとめてしまえば、

「大したこともしていないのに、先進国に住んでいるというだけで安穏に暮らしている人は、これからどんどん貧しくなるよ」

ということだ。

日本は今後、柳井さんの言うように、ますます貧富の差が広がっていくだろう。
柳井さんはその原因をグローバル化に依拠しようとしている。富が世界規模で平準化されることで、頑張らないと後進国に住む人のようにどんどん貧しくなっていくよ、と。

交通網やインターネットがこれだけ発展した社会では、グローバル化は今までにないスピードで進んでいくだろう。
これは止めようがないし、止める必要もないけど、柳井さんクラスの人が「オレはそれを加速させる。あとは知ったこっちゃない」というのは、なかなかどうして過激すぎる。

個人的にはTPPにも概ね賛成だし、自由競争がないと経済は発展していかないと考えているけども、それはかなり長期的な、いわば自分が死んだ後の何百年も先を見据えたマクロな視点であって、急激にそれをやろうとすると社会に大きなひずみが生まれてしまう。

考えるまでもなく、1億円と100万円に別れたら、圧倒的に後者の数が多くなるはずだ。
一部の金持ちと、大多数の貧困層。

柳井さんは「頑張れば大丈夫だ」と言うが、世の中の大多数の人は向上心がない。これは認めなければならない。
食うに困らない程度に働き、あとは酒を飲んでグウタラしたいという、どうしたって頑張れない人が大多数なのである。

それを認めた上で、先人たちはこの社会を築いてきたのだ。
誰かが富を独占すれば、社会の基盤が崩れて、犯罪も増えるし戦争や内乱も起こる。
そうならないために、権力者や経済界が必死になって民衆を治めて、全員がある程度納得できる程度の富を得られる社会を作って、国が平和に回っていくように努力してきた結果が今の日本であり、一定以上の先進国の姿だろう。

それには、ある程度国の利益もやはり守っていかなければならない。
現代社会はまだまだ「国」がすべての基盤であり、しばらくは続くだろう。このベースが「企業」となる日もいつか来るかもしれないが、少なくとも今後100年で訪れるとは思えない。

そういったことを、柳井さんとほどの人が分かっていないわけがない。
だからこそこの発言は「(給料が安いのは)お前が頑張らないせいだ」という言い訳を伝家の宝刀的に自社社員に使いたいだけなのでは、と穿ってしまうのだ。

優秀な人は国籍を問わず活躍すべき、というのはまぶしすぎるほどの正論だけれども、だから貧富の差はどんどん広がっていい、というのはちょっと急進的すぎる。

日々を安寧に過ごせればそれ以上のことは望まない、しかしそれが崩れた時、大多数を占める一般大衆がどうなるか。
認めたくはないかもしれないけど、それは歴史が証明してきたことだし、いかにそれを抑えるのかが近代国家の常識だろうと思う。

自転車が車道を走れないのは、日本人が信号を守るから

先日、車道を走っていた自転車の高校生が、そのすぐ後ろを走っていたトラックに轢かれて死亡してしまうという痛ましい事故が起きた。
詳細を聞くと、高校生が無謀な運転をしていたわけでもなく、トラックが煽っていたわけでもなく、道路の端があまりにガタガタで、つまずいてスリップしてしまったことが原因らしい。
もちろん、トラックの運転手は予測して運転すべきだったろうが、それにしても何ともいたたまれない気分になる。

「自転車は歩道を走るもの」という誤解をなくしたい

言わずもがな、特に都心の自転車の数はここ数年で本当に増えた。
そして、こちらの方も主張するような「自転車は車道」という認識も、かなりの人に広まってきたように思う。

しかし、正直今の日本で、自転車で車道は危険すぎるように思う。都内の幹線道路をママチャリで走ることなど不可能に近い。
※交通ルールを守れば、自転車も歩道を走ることができます。

これは上述の事故でもあるように、多くの車道が自転車には適していないこともあるし、特にタクシーをはじめとした職業自動車がスピードを出し過ぎることに大きな要因があるのではなかろうか。

日本の自動車は、本当にビュンビュン飛ばす。道交法上は歩行者を待たなければいけない、信号がない横断歩道でも、むしろ加速して歩行者をかわそうとさえする。時には、生活道路だろうとお構いなしに飛ばしまくる車さえいる。

海外だと、地方は別として都心部の車は、荒っぽいものの、速度そのものはそこまで出していないように思う。
それがどんなに道路のど真ん中だろうと、歩行者が手を上げて渡ろうとすれば、大概の車は速度を落として通してくれる。ましてや、クラクションを鳴らされることなど、インドと中国以外ではあまりない(逆に、鳴らされたら相当ヤバイ相手だからすぐ逃げようと思う)。

海外のドライバーは、歩行者や自転車がいつどこから飛び出してくるか分からないから速度を抑えている、というところはあると思う。

日本人は、これはドライバー、自転車、歩行者に関わらず比較的全般に、忠実に信号や道交法を守る。だからこそ、日本のドライバーはよもや道路に人が飛び出してくるとはほとんど考えていないし、もっと言えば、万が一飛び出してきてはねてしまっても、規則を守らず飛び出してきた相手が悪い、という考え方なのではないかなと思う。

そりゃそうだろ、と思う気持ちもわかるし、それで自分が罪に問われたら辛いな、とも思うけれども、そもそも自分は、ともすれば人を殺してしまう可能性のある巨大な鉄の塊にまたがっているのだから周りに気を配らなければ、となってもいいものを、「決まりを守らない相手が悪い」「自転車は、車サマの車道にあとから来た、遅くて厄介なシロモノ」という認識が先に立っているのが、日本の平均的なドライバーではないかな、という気がするがいかがか。

どっちが良いのかなど言えないけども、少なくともあと数十年は車、自転車、歩行者が共存しなければならないし、もう少しお互いを、とりあえずは強いものが弱いものを思いやる気持ちを持つことと、道路そのものの整備を進めないと、この「自転車は車道」は難しいのではないかな、と思った。私自身は自転車に乗ることはあまりないのだけれども。
ちょっとだけ、風が吹けば桶屋が儲かる的に考えてみました。